[短波ラジオを作る]

高校入学後、5球スーパーの中波ラジオを作っては、小遣い稼ぎに販売していた星山さんであるが、1952年、高校2年になると、短波受信機を作ってSWL活動を始めた。本で、「コイルを差し替えると短波が聞こえる」という記事を読み、プラグインコイルを作りトライしてみたものだった。また同時期に、「免許を取って世界と交信しよう」というアマチュア無線免許取得の通信教育の広告が新聞に載った。それを見て、星山さんは、初めてアマチュア無線の存在を知った。

日本でのアマチュア無線の再開は、1951年の戦後第1回目の国家試験の実施、1952年のアマチュア無線局免許の交付と続いていた。時を同じくして、星山さんは、短波ラジオでアマチュア無線の受信を始めことになる。DX局をメインに受信するようになったのは、いつものようにCWを聞いていたところ、たまたまDXが聞こえたことがきっかけだった。

[SWL活動]

高校入学して間もない頃、担任の赤堀治夫先生が「星山はモールス好きみたいだからあげるよ」と言って、木枠のついた電鍵をプレゼントしてくれた。すでにモールス符号を習得していた星山さんは、自作した低周波発信機に接続して、家で毎日トンコツ打っていた。受信に関しては、姉の協力で練習しある程度は習得したものの、十分なレベルに達していないのに、強引にDX局の高速電信を受信したので、当初はCQとコールサインを取るのが精一杯だった。しかし、「そのうちにBCNU(Be Seeing You)といった略語も覚えました。もし先生がいたら通信士になっていたかもしれません」と話す。なお、この電鍵は、JA2JW開局後もしばらく愛用していたと言う。

その頃は、静岡市内ですでに開局していた、JA2AG飯塚さんや、JA2CE原崎さんのところに遊びに行っては、アマチュア無線についていろいろと教えてもらった。また、電信を運用していたJA2CEさんには、自分が受信した局のリストを見てもらい、それがどこの国の局か教えてもらった。ますます受信に熱中した星山さんは、1953年2月にJARLに入会して、SWLナンバー(JA2-1015)を得、その後本格的にSWL活動を開始した。

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SWL時代に使用したログブック。(クリックで内容を表示)

JARL入会後の星山さんは、CWによるDX局の受信にさらに熱中した。またせっせとCQ誌にSWLレポートを送った。当時のCQ誌のDXコーナーのエディターはJA1AA庄野さんで、星山さんが送ったレポートに対してよく返事をくれ、褒めてくれた。星山さんは、「庄野さんは新米をおだてるのがうまかった」と話す。そんなこともあって星山さんは、ますますのめり込んで行った。星山さんがDXerになったのは、「庄野さんの影響が強い」と話す。

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SWL時代の星山さん。(1953年10月撮影)

[プロの無線屋を目指す]

星山さんは、SWL活動に熱中するかたわら、プロの無線屋を目指した。これは家庭の事情で大学への進学が難しかったことも理由の一つである。無線のプロフェッショナルには2種類の資格がある。無線通信士と無線技術士である。星山さんは当初無線通信士を目指そうと思ったものの、最終的には無線技術士を目標におき、その第一歩として第2級無線技術士の資格取得を目指した。

星山さんが通っていたのは電気科であったが、学校の勉強では電気の基礎(電磁事象)以外に無線に関連した専門科目はなく、受験の参考にならなかったため、市販の本を教科書にして独学で勉強した。現在も大切にしまってある武田行松氏の著書「解説無線工学」を主に、電波法令集や、無線従事者国家試験問題集を暗記した。「その頃は若かったので暗記力もよく、電波法は何が何ページのどの辺りに書いてあるまで丸暗記したのを覚えている」と話す。真空管とか、電波伝播の難しいところは放課後に電気科の職員室で教えて貰った。

[2技免許を取得]

その結果、高校3年の時、1953年10月期の国家試験で合格し、第2級無線技術士(現 第2級陸上無線技術士)の免許を取得した。就職のこともあったので、赤堀先生に報告したところ、大変喜んでくれたことを覚えている。後日、先生から、「お前が東京で受験したのではっきりしないが、静岡県内で高校生が合格したのは初めてみたいだ、愛知県にもいないようだよ」と教えてくれた。この2技の取得が後々、アマチュア無線局に開局に大きく役立つことになる。

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第2級無線技術士の免許証。(1957年に本籍変更で再発行を受けたもの)

静岡工業高等学校電気科の同級生には、星山さんが2技を取得した同時期に、2アマを取得し高校時代に開局を果たしたJA2EO宮地さん、さらに、卒業後同じところに就職した三浦さんがおり、「いつも3人で無線の話しをしていた」と言う。また科は異なるが同年には、JA2EP大久保さん(現 JH1FCZ・FCZ研究所代表)、また1年先輩にはJA2JZ佐野さんがいた。

[就職する]

星山さんは、高校時代、宮地さん、三浦さんと3人で、清水にあった漁業無線の会社にアルバイトに行っていた。アルバイト先では、中古のバリコンなどをもらうことができたため、機器の自作に大いに役立った。また、その会社は、「おまえら、就職がなかったらうちにくればいい」と言ってくれたため、就職活動は気が楽だったという。星山さんと三浦さんは、日本電信電話公社(現 日本電信電話株式会社(NTT))を受験した。

ただし、電電公社という名前ではなく、名古屋無線通信部という名前での募集だったことを覚えている。星山さんと三浦さんと同じ日に清水で入社試験を受けた。しかし、2人はなんと、この日上映の映画の券を先に購入していた。「もたもたしていたら映画が見られなくなるぞ」と、速攻で答案を出し、先に面接をやってもらって、2人揃って静岡の映画館に直行したと言う。そんな状態での受験ではあったが、2人とも無事に合格して電電公社に就職することになった。3人の中で、宮地さんだけは松下電器産業に就職した。

就職時、星山さんはすでにプロの2技の免許を持っていたため、公社は優遇してくれたと言う。それもあって榛原郡白羽村(現 御前崎市)にある白羽無線中継所に配属された。また就職と同時に、白羽にあった公社の独身寮に入寮したため、実家の静岡市から無線に関する機材一式を持って引っ越しを行った。なお、白羽の独身寮では、アマチュア無線局の開局に関して問題はなく、「自分はついていた」と星山さんは語る。これは、同じ電電公社に就職した三浦さんが、配属された愛知県の大山中継所で「アマチュア無線より、先にプロの資格を取れ」と開局に反対され、すでに2アマの免許を取得していたものの、結局開局が叶わなかったからだ。

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白羽無線中継所で機器調整中の星山さん(下)。