[2アマ免許を取得]

話は前後するが、就職試験に合格した星山さんは、その後アマチュア無線技士の資格の取得に務めた。当時はプロの2技免許ではアマチュア無線局が開局できなかったからである。その結果、高校卒業直後の1954年4月期の第2級アマチュア無線技士国家試験に合格した。6月9日付けで2アマ免許を取得した星山さんは、さっそく白羽の独身寮でアマチュア無線局の開局申請を行った。送信機の部品については、アルバイト先からもらったりしていたためほぼ揃っていたという。

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第2級アマチュア無線技士の免許証。

予備免許が下りると、すぐに送信機の製作に着手し、試験電波の発射、工事落成届けの提出と矢継ぎ早に進めていった。アンテナに関しては、無線中継所の敷地内にある寮だったため、設置に苦労することもなく、先輩に手伝ってもらって、敷地内の木柱を利用して逆L型アンテナ(水平部30m、垂直部10m)を展開した。

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開局当時のシャック。榛原郡白羽村にて。(1954年8月撮影)

そして2アマ国試の合格からわずか3ヶ月後の1954年7月30日、東海電波監理局から2人の検査官が来宅して落成検査を実施。無事に合格して、星山さんはJA2JWの無線局免許を取得した。当時の星山さんは、就職したばかりで十分な資金も無かったため、落成検査の時は、静岡のOMから水晶を借りてきて検査を受けた。その後は、自分で水晶を削って作った。また、星山さんに刺激されて、同じ職場のJA2KW佐々木さんも同じ寮内で開局した。

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新設検査合格時の無線検査簿。

[1st QSO]

星山さんは、落成検査に合格したその日に1st QSOを達成した。7MHzのAMで交信相手は名古屋市のJA2HK山川さんだった。開局時は2アマだったため、3.5MHzと7MHzのAMしか出られず、その頃の交信相手は国内専門で、DXはほとんどやらなかった。その結果、開局1年でWAJA(全国47都道府県との交信で完成)とJCC(100の異なる市との交信で完成)アワードを取得できた。「当時は交代制勤務で、夜勤の明けは休みだったため、平日の日中にオンエアができたことが良かった」と話す。

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1stQSOで得たJA2HK局のQSLカード。

星山さんが開局時に使っていた送信機は、変調とファイナルに807を使用したもので、出力は10W程度であった。受信機は5球スーパーを使った。この受信機に、了解度(Q)が上がって5(5段階の最良)なることから「Q-5’er」(キューファイバー)と呼ばれた選択度の良い中間周波数回路を入れて使っていた。

[1アマ国試に合格]

2アマ局は電信ができないため、もっぱら国内相手にAMモードで楽しんだが、ときには、W6AMなどの米国西海岸のビッグガン(設備が大規模で送受信に優れた局のこと)とQSOできたこともあった。そんな中、星山さんは早くCWモードの運用がしたくて、開局後すぐに1アマの受験申請書を提出しており、1954年10月期の国家試験に合格し、第1級アマチュア無線技士の資格を取得した。受験の日は、鈴鹿学園という三重県にある電電公社の教育施設で研修を受けている最中であったため、作業着着用のまま、名古屋まで受験に行ったことを覚えている。

1アマに合格したお祝いに、小田原の叔母さんから1954年11月発行の「無線工学ハンドブック(オーム社刊)」をもらい、この本も前述の「解説無線工学」と共に現在も大切に保管しているという。その後すぐに変更検査を受け、局免許に14MHzとA1(CW)を追加してもらった。星山さんはこれで念願のCWモードに出られるようになった。

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14MHzとA1が追加された、1955年6月12日付の変更許可書。(クリックで拡大)

[本業は回線保守]

白羽無線中継所に配属された星山さんの仕事は中継回線の保守であった。担当したのは、60MHzのAMを使った、日本で初めて開通した東京から福岡までの長距離電話回線で、6チャンネルあった。「出力は30Wぐらいだった」と言う。この回線は、1943〜44年頃にできたもので、二子山(箱根)-白羽(御前崎)-大山(渥美半島)-名古屋-青山高原(三重)という経路で中継された回線であった。

無線中継所は、総じてロケーションの良いところにあるため、戦時中には米軍の艦載機から機銃掃射を受け、隣の大山無線中継所では撃たれて死んだ先輩職員もいた。星山さんの勤務する白羽無線中継所でも負傷した先輩職員がおり、中継所の壁には、機銃で撃たれた生々しい跡が残っていた。星山さんは、毎朝60MHzの回線のS/N試験や、周波数特性試験などを行った。1958年には、マイクロ波の普及によって、このVHFの回線は廃止されている。

60MHzの回線の保守の他には、米軍が敷設した70〜90MHzを使うFM波の中継回線の保守も担当した。米軍はこの回線に3エレメントの八木アンテナを使っていた。一方、電電公社が使っていたアンテナは逓信省型の大型アンテナで、600オームの並行フィーダーで給電する代物だった。「チャンネル間のアイソレーションが悪く漏話が多かった」と話す。星山さんは、1957年まで白羽無線中継所と同大井分室に勤務する。

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60MHzの中継に使用されていたアンテナ。

[マイクロ回線を経て現在は光回線]

60MHzの中継回線を使っていた当時、静岡から東京に電話をかけるのに、特急で申し込んでも1時間以上待たされる時代だった。その後は、4GHzのマイクロ波の回線ができて全国に広がった。長距離電話も早くつながるようになり、また通話の品質も格段によくなった。「当時の電電公社にはマイクロ無線部があり、無線は花形の職業だった。現在では光ファイバーでの通信がメインとなっており、無線回線は、緊急用に残してあるマイクロ波の回線しかありません」と星山さんは話す。

事実、以前はどこの街の電話局にも、たいていは屋上に鉄塔があり、その鉄塔にはマイクロ回線用のパラボラアンテナが設置されていた。しかし、現在ではパラボラアンテナを見かけることはほとんど無く、鉄塔に設置されているのは、ドコモの携帯基地用アンテナ程度である。

マイクロ波の回線を使用した場合、メイン回線がダウンした際にサブ回線に切り替えるが、ものすごく早く切り替えても、一瞬不通になる時間ができてしまう。電話での通話では全く問題にならないこの一瞬の不通時間が、コンピューターでの通信ではアウトとなる。そのため、コンピューターの普及に伴い、マイクロ回線は実用的ではなくなった。その他、マイクロ波では電波の宿命であるフェージング等の電界変動が発生したり、また雨の影響で伝搬ロスが増えたりするため、無線を使い続けるには限界があり、次第に光回線に変わっていった。