[大井分室]

米軍の回線は米兵が端末を保守しているため、中継回線の故障時には簡単な英語で各中継所に照会があり、白羽無線中継所も例外ではなかった。DX指向であった星山さんは「それを楽しく感じた」と言うが、逆に戦前派の先輩からは「あの若造は英語を喋りやがる」と目を付けられていた。そんな折りの1955年秋、牧之原台地にあった旧海軍航空隊大井飛行場の旧将校クラブ跡に、米空軍の無線中継基地が設置され、それを白羽無線中継所が委託保守することになった。

その大井分室の分室長になった先輩から星山さんは、「お袋さんのいる静岡から通って良いぞ」とおだてられ、白羽無線中継所大井分室(正式名 大井無線中継所)へ移動になった。静岡市国吉田の自宅からは、まず国鉄(現 JR)に乗って金谷駅まで行き、そこからバスで牧之原まで通勤することになった。「大井分室での勤務はGI(米軍兵士)との付き合いがおもしろく、英語の良い勉強になった」と星山さんは話す。

[ジープ]

昼間勤務中には、GIが「Jeepでドライブしよう」とよく誘ってくれ、先輩の許可を得て周辺を走り回った。「ろくに日本車が走っていない道路を猛スピードで走るJeepはおもしろくもあり、また怖くもあった」と言う。時にはGIがローラースケートで滑走路跡を滑っており、「お前もやれ」と言われて、勤務中に滑ったりしたこともあった。昼間勤務終了後の夕方には、ほとんどGIが金谷駅までJeepで送ってくれた。星山さんは、1970年に牧之原市にある現在の自宅に転居するが、その場所は、「この時のGIとのドライブで発見し、と記憶していた場所です」と話す。

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星山さんの乗ったジープとGI。

もちろん苦労もあった。夜勤時、遊びに出かけたGIが留守のところに、東京の上部機関から「GIを呼べ」と電話で命令され、島田の飲食店等を電話で探し回った事がよくあった。そのうえ苦労して見つけても、遊んでいるGIにとってはおもしろくない話であり、「見つからなかったと言え」と命令されることもあって、中継所に呼び戻すのが大変であったことを星山さんは記憶している。 

[山原(やんばら)に転勤]

星山さんが白羽無線中継所に配属された同じ年の1954年、日本で初めて東京から福岡までSHF回線が開通した。このSHF回線の中継は、VHF回線とはルートが異なり、静岡県では二子山から清水市(現 静岡市清水区)にある山原無線中継所に入っていた。ここでは、浜松も含めて、静岡県内の全てのTVのコントロールもやっていた。1957年、星山さんは大井分室からこの山原無線中継所に転勤となる。

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シャックを静岡市国吉田に移設。(一旦廃局して再度開局)

1954年に白羽無線中継所の寮で開局した星山さんであるが、翌年大井分室に移動になった後は、前述のように自宅である静岡市国吉田にある印刷局の官舎から通勤する様になったため、無線局を官舎に移して運用を続けた。しかし、官舎だと何かとアマチュア無線がやりにくいこともあって、母親が配慮してくれ、1956年、星山家は清水市草薙の借家に転居した。それによって、星山さんは、無線局の設置場所を今度は清水市に移した。そんな折の山原への転勤であった。

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清水市草薙に移設した当時のシャック。

[ロープウェイ通勤]

山原勤務時代は、草薙の自宅から通勤したが、まずは電車に乗って無線中継所のある山の麓まで行き、その後は、当時日本で2カ所しかなかった電電公社の専用ロープウェイに乗って山上の無線中継所に通った。しかし、そのロープウェイは時々止まり、その際は歩いて登ったこともあった。「歩くとゆうに1時間くらいかかった」と話す。また、このロープウェイの運転は電電公社の社員が当番で行い、星山さんも運転を行った。

運転室では、ギヤ式のインジケーターにより、ロープウェイの現在地が表示されたが、時々指示が狂っていることがあり、すでに車体は駅のホームに入っているのに、インジケーター上ではまだホームに入ってない表示になっていることがあり、その際には車内から電話がかかってきて、「何をやっているんだ。ぶつかるぞ」と怒鳴られたことを覚えている。ロープウェイの運転の他には、飲料水をくみ上げるポンプを稼働させるために、谷底のポンプ小屋まで下りていって、ポンプのスイッチを入れるという仕事もあった。ポンプのスイッチを入れれば、中継所まで水が行くような配管があり、山上の無線中継所で蛇口をひねれば水が出た。

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山原無線中継所。右に見えるのが通勤に使ったロープウェイ用のロープ。

[山原での業務]

山原無線中継所での仕事は、4GHzマイクロ波の中継回線の保守だった。この回線は電話の中継の他、TVの中継にも使用されていた。回線の帯域は10MHz幅くらいあり、電話で使うと480チャンネルも取れた。しかし、TVを中継すると1チャンネルしか取れなかった。

TVの中継を行う場合、当初は無線のマイクロ波回線で映像のみを送り、音声は搬送回線という電線の回線で送っていた。そのため、絵は送り先に届いているに、音が届いていないというようなトラブルもあった。また、プログラム(何時から何時まで何を送るか)の切り替えは手動で行うため、時には「接続を間違えて、別の絵を送ってしまった失敗もした」と言う。その他には、「切り替える時間の直前にたまたま電話がかかってきて、切り替えが遅れてしまった失敗もした」と星山さんは話す。

[DXを始める]

清水市からオンエアしていた1957年、星山さんとソ連(現 ロシアおよび周辺諸国)のミルヌーイ南極基地とのQSOの様子が、朝日新聞で紹介されたことがあった。その後、月に1回程度、警察が定期的に草薙の家を尋ねて来たという。「ソビエトとは簡単に交信できるのですか」という様な質問をされ、星山さんは正直に、「ソビエトなどいつでも交信できますよ」と返答していた。そんな折、兄が警察官をしている高校時代の同級生から、「お前はスパイ容疑で調べられているぞ」という話しを聞き、それで警察がしょっちゅう尋ねてくる理由が分かった。しかし、その情報をくれた同級生が、警察官の兄に「あいつは単なる無線マニアで、スパイではない」と説明してくれたため、その後警察官は来なくなった。

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星山さんの記事を掲載した1957年8月29日付の朝日新聞朝刊。

開局後1年程度は、国内QSOに没頭し、WAJAやJCCを獲得した星山さんであるが、1アマを取得し14〜28MHzに出られるようになった1955年からは、CWによるDXを始めた。電話にあまり出なかったのは、DX QSOはCWで行うものだと考えていたからであった。本格的にDXを始めると、世界中のハムが熱中していたDXCCの取得を目標にしたのは、星山さんも例外ではない。DXCC(DX Century Club)とは、ARRLが発行する、世界の異なる100のエンティティ(国/地域)との交信で完成するアワードのことである。Clubという名称であることから、アワード取得者はDXCCの会員という資格になる。

[DXCCを申請]

毎日のように運用した結果、1958年、105枚の異なるエンティティのQSLカードを取得した星山さんは、Mixed Mode DXCCをARRLに申請した。申請したQSLカードのリストを見ると、そのほとんどがCWモードによるQSOで、電話(Phone)によるQSOはわずかだったことが分かる。

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1958年当時の星山さん。

申請から数ヶ月後、ARRLから申請に使ったQSLカードが返送されてきた。それには受領証が同封されており、「ミスターDXCC」と呼ばれていたDXCCデスクのR.L.White W1WPO(後のW1CW)ビルのサインで「賞状は別送する」と書かれていた。さらに待つこと数日で、発行番号3634番のMixed Mode DXCCの賞状が到着した。しかし、1958年にすでに世界の3000を超えるハムが、DXCCを完成させていたことには驚く。

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W1WPOビルのサインの入った受領証。(クリックで拡大)