[SSB送信機を自作]

星山さんは、1957〜8年頃から、すでにARRLの機関誌であるQST誌を購読しており、アマチュア無線の先端技術に接していた。当時はまだまだ洋書の入手は容易ではなかったが、星山さんにはQST誌を入手できる特別な理由があった。それは星山さんの実姉が日系の米国人と結婚して当時からオハイオ州に住んでおり、無線好きの星山さんにQST誌やUS-CQ誌を米国から送ってくれたからである。

当時のアマチュア無線の電話はAMがほとんどであり、SSBは少数のパイオニアが実験しているに過ぎなかったが、QST誌を通して情報を得ていた星山さんは、早い内にSSB化を実現できた。もちろん日本でもJA1ACB難波田さんや、JA1AEA鈴木さんが日本のCQ誌にSSBの解説記事を書いていたので、「それらも大変参考になった」と言う。ただ送信機の自作記事はQST誌にしか載っていなかったので、その記事を参照して星山さんは自作にチャレンジした。

作ったのは3.5〜28MHzの5バンド、SSB/CW送信機であった。当時はAM全盛期だったため、バンドの中でSSB波を出すと復調できない局が多いため、SSBにキャリアを入れ、A3H(現行表記ではH3E)形式でIDを送信できるようにも工夫した。星山さんは、まずでかいシャーシの上で、配線図のとおりにバラックで組んだところ、上手くいったので、ケースに入るように小さなシャーシに載せ替えた。すると、ドライバー段とファイナル段の両方で自己発振が起こってしまい、その発振を止めるのに3ヶ月もかかった。「この部分が一番難しかった」と言う。

photo

自作した5バンドSSB/CW送信機。

[SSBでオンエア]

1959年の8月から製作に着手したが、結局完成したのは11月になってしまった。ファイルには807を使用して約40Wの出力を得、別に811Aパラレルのリニアアンプを作り約150W出力として、これで変更検査を受けた。「なんとか1959年の暮れにはSSBの電波が出せるようになった」と星山さんは話す。

photo

自作SSB/CW送信機の内部。

翌1960年からは本格運用を始めた。この頃日本ではまだまだSSBに出ている局は少なく、そのなかでも特にSSBでDX QSOを行っている局はごく僅かで、「当時アクティブだったのはJA1ACB局とJA1ANG局ぐらいしか記憶にない」と言う。そのため、14MHzや21MHzのSSBに出ると、「朝は北米から、夕方は欧州から呼ばれっぱなしになった」と話す。

海外ではSSBに出ている局もある程度おり、特に中米や南米などでは、CWはやらずSSBしかオンエアしていないという局も多かった。そのため、星山さんは「SSBをはじめたところ、一気にDXCCが増えていった」と話す。

[Phone DXCC]

SSBでの運用が増えると、電話運用だけでも100カントリーを超えるQSLが集まったため、星山さんはPhone DXCCを申請し、1962年2月13日付で、発行番号2239番のPhone DXCCを取得した。電話の内訳はSSBがほとんどで、AMはわずかだった。星山さんは「SSBを始めるまでは電話にあまり興味がなかったので、JAではそんなに早いほうじゃない」と語る。

photo

1962年頃のシャック。棚の一番右が自作SSB/CW送信機で、その上の装置が150Wのリニアアンプ。

1975年に制定されたCW DXCCに至っては、「当初は興味が沸かなかったため、CW DXCCを意識した運用は行っていなかった」と言い、星山さんは、1987年になってようやくこれを受賞した。発行番号は4041番だった。「DXCCに提出したQSLカードは郵便事故での紛失防止のため書留便で送付し、返送にも書留便をいつも依頼していたが、ARRLはいい加減なもので、普通便で送り返してくることもよくあった。それでも返送料の請求は書留代になっていた」と苦笑する。

それほどまでに熱中したアワードハンティングであったが、お粗末な「金儲けアワード」が急増してきたため、星山さんは、1967、8年頃からDXCCなどの一部のアワードを除いて熱が冷めていった。

[CQ誌のエディター]

1963年、JA1CR桑原さんから「CQ誌のDXページのエディターを引き受けてくれないか」と依頼があった。世話になっていた先輩からの依頼であり、星山さんは快諾し、1963年8月号から担当することになった。当時のCQ誌のDXページは6ページあり、内容は、コメント、ニュース、DXレポート、DXCCランキング、読者からのコメント、DXer紹介などであったが、エディターを引き受けるにあたって、「エディターの意見を尊重するので、原則的に文は訂正しない」と編集長に言われたので、「多少不安だった」と当時を思い出す。

星山さんは初めての1エリア以外のエディターであったため、地の利の面で苦労することも多かった。それは、DXに関するイベントはほとんど1エリアで行われており、仕事が忙しかった星山さんは、たとえば大物DXerの来日など、平日に行われるイベントには参加できなかったからだ。そういう時には、当時の編集長JA1AP菅田さんや、1エリアの友人ハムに代わりに行ってもらい、話しを聞かせてもらったり、写真を提供してもらったりして記事を書いた。

photo

1964年頃のシャック。SSB送信機(右下)は2台目に変わっている。

[ニュース集め]

また、「DXニュースのネタ集めにはいつも苦労した」と話す。ニュースは主に、英国のSWLが発行しており、週1回航空便で届いた「DX News Sheet」や、米国から届いた「DX Magazine」から拾ったが、英国はよく郵便のストライキがあったので「遅れて届くことも多かった」と言う。NZART(ニュージーランドのアマチュア無線連盟)機関誌のDXページのエディターをやっていたZL2AFZゲオさんとも情報交換した。その他、オンエアで、知り合いの米国局を捕まえては「なにかニュースはないかと」聞いて集めたと言う。

photo

W4KVXが発行していた「DX Magazine」誌1963年11月2日発行のNo.208。表紙に直接住所氏名がタイプされて送られてきた。

読者から寄せられたレポートの整理は夫人が手伝ってくれたが、当時はパソコンもなく、手作業でバンド別、プリフィックス順に並べ替えるのは結構な作業量だったという。星山さんは、「原稿をまとめるために出張先にも資料を持って行って作業した」と語る。しかし、苦労して原稿を書いても、OM諸氏から、「この若造がくそ生意気ことを書きやがって」と、おしかりを受けることもたびたびあったと言う。

エディター時代に一番記憶に残っていることは、1965年1月号で、「ベストレポート賞」を、「Ace of Aces」という名称に変えたことだと言う。それまでは毎月のレポートの内容だけで評価を行い、受賞者を決定していたが、名称を変更したことをきっかけに、レポートだけでなく、DX界での活躍も考慮するようにした。たとえばDX界に貢献したとか、難関アワードを取得したとか、珍カントリーにDXペディションに行ったとかである。「Ace of Aces」には新人賞も作った。「この名称変更は多くの読者から評価された」と思い出を語る。星山さんはDXページのエディターを3年間担当した後、1966年8月号を最後に、JA1DM海老沢さんに引き継いだ。1年間の長期出張を命じられたためである。