[A1オペレータークラブ]

阿児に転勤する前の、伊勢への長期出張時代の話であるが、1966年12月19日付で星山さんは、A1オペレーターズクラブに入会した。これはクラブという名称を使ってはいるが、自分の意志で入会することはできない。その会員証は、ARRLが高度な運用テクニックを持っていると認めたオペレーターに提供する推薦証書であり、会員2人の推薦により突然送られてくるという変わった入会形態をとっていた。誰が自分を推薦したかは分からないが、会員証が届くということは、CWの技量はもちろんアマチュア無線家としての運用姿勢全般が世界的に認められた証である。「会員証が届いたときは本当にうれしかった」と星山さんは語る。

photo

星山さんが受領したA1オペレータークラブの会員証。

[山原勤務に戻る]

話は前後するが、星山さんは伊勢への長期出張後、1967年に阿児無線中継所に転勤となったため、家族で阿児に引っ越しを行い無線局も移設したが、1年後の1968年には、さらに名古屋転勤の打診があった。しかし、名古屋では無線環境が悪くなると考え、星山さんはこの話を断った。その後、翌1969年になると、かつての勤務地であった山原無線中継所に空席があるという情報を入手し、静岡に戻れることもあって、山原への転勤を志願した。この希望が叶い、星山さんは1969年8月から再び山原無線中継所の勤務となる。三重県には出張時代も含めて都合3年間居住したことになる。

肝心の住居(無線局の設置場所)であるが、かつて住んでいた清水市(現静岡市)草薙の借家はもう空いていなかった。電電公社の社宅は空いていたものの、アンテナ設置の自由が効かないため敬遠、母親も社宅での人間関係に良い印象を持っておらず、母親と相談の結果、清水市下野の借家を借ることになった。この借家は広さがあり、さらには勤務地に近くて通勤には至便であったが、すぐ北側に山(山原無線中継所)があって、DXをやるには不向きな場所だった。そのためとりあえず無線局の移設は行ったが、「あまり飛びそうにもないため、ほとんど運用はしなかった」と星山さんは語る。

[榛原に転居]

そんな折、友人から「榛原で、ロケーションのよい、宅地になる土地が売りに出ているぞ」との情報が入った。星山さんはすぐに下見に行ったところ、何と昔GIとドライブした際「良いロケーションだ」と目星をつけておいた場所の近くだった。その宅地は茶畑に囲まれた土地で、かつては人家があったが、昔に取り壊されていて畑になっていた。井戸も出るようだ。

実際にマークしていた場所からは、少し坂を下った地点ではあったが、土地の価格もなんとか手の届く範囲であったことと、宅地の北東〜北西が斜面になっていて、「北米、欧州とやるには問題ない」と確信し、星山さんはすぐに購入を決めた。しかし、土地は購入したものの、それ以上の資金源が無かったため、勤務先に目一杯借金し、「余勢を駆って家の建設も実行した」と話す。シャックは節子夫人との協議の結果、細長い5畳部屋に決まったが、「アワードが壁面一杯に飾れるよう、細長い両面をすべて板張りにしました」と話す。

photo

榛原の好ロケーションに引っ越す。

1970年11月、新居が完成したため、星山さん、母親、夫人、長男の一家4人は清水から榛原町(現牧之原市)へ引っ越しを行った。榛原の新居から勤務地である山原無線中継所までは距離があり、まず焼津まで車で行き、焼津からは国鉄(現JR)で清水まで、清水からはバスで山原中継所の麓まで向かい、最後はロープウェイに乗って、都合2時間程度を要した。しかし、長距離通勤と引き替えに手に入れた無線のためのロケーションは想像以上に抜群で、さらに回りに人家が無いためTVIやBCIとは無縁という好条件も相まって、星山さんは、以後コンテストで連勝を重ねて行くことになる。

[70年代の無線設備]

星山さんは榛原に引っ越しすると同時に無線局の移設も行った。リグは移設前と同じTS-510に、2×572Bの500Wリニアアンプを使用。アンテナは20mのパンザマストを建塔し、そこに14/21/28MHz用の3バンド2エレキュビカルクワッドを載せた。ローバンド用には、竹ざおを活用したダイポールやグラウンドプレーンを使用したと言う。この設備で70年代前半のコンテストを戦った。

photo

1971年当時の星山さんのシャック。

1975年になるとエキサイターをTS-520に取り替え、翌年にはアンプを2×3-500Zものに取り替えた。この設備を1980年代前半まで使用して成果を上げたという。TS-520については、「DX仲間では不評であったが、好きな機械であった。ただし、かなり改造しました」と星山さんは話す。

[市販機を改造]

改造の内容は、まず、内部に3段階(6、12、18dB)の入力アッテネーターを組み込み、強入力からの抑圧の軽減を図った。このアッテネーターはフロントパネル左上に付けたスイッチで切り替えられるようにした。たまたま、星山さんのシャックに遊びに来たパキスタンの局がこれを気に入って、改造方法を尋ねたため、「設計図と抵抗を彼にプレゼントしました」と話す。次は、外付けでLC回路のプリセレクターを付加し、選択度を良くした。その他、静岡市在住の友人が作ったRFスピーチプロセッサーも機器内部に組み込んで、トークパワーの強化を図った。1983年にTS-930に取り替えるまでは、これを使用したと話す。

photo

1975年当時の星山さんのシャック。

アンテナについては、1978年に前面道路の拡幅工事で土地を取られ、パンザマストの移設を余儀なくされた。それを機会に、キュビカルクワッドを、14/21/28MHz用の3エレメント八木であるTA-33に取り替えた。キュビカルクワッドは風に弱く、しょっちゅう故障していたため、仕事が多忙になっていた星山さんは、飛びよりも安定性を重視したことが取り替えの理由である。7MHzについては2エレメント位相給電型のAFA40に取り替えて性能を強化した。「初めて建設したパンザマストは現在の道路のところにたっていたんですよ」と星山さんは説明する。

photo

TA-33の下部にAFA-40を設置している様子。