[初めてのコンテスト]

星山さんが初めて参加したコンテストは、開局2ヶ月後の1954年9月に開催された「無線と実験コンテスト」であった。これは国内コンテストであり、星山さんは7MHzのAMで参加した。当時の7MHzAMは7050.0kHzと7087.5kHzの2波しか許可されておらず、混信をかき分けながら、77局と交信したという。当時のログを見ると、「このコンテストでJCCが3つ増え、トータル110市になった」というメモ書きがある。「コンテストはもちろん、この頃からアワードも好きだったんです」と星山さんは当時を語る。

DXを始めるようになると、ARRLインターナショナルDXコンペティションや、CQワールドワイドDXコンテストにも参加するようになる。特にシャックを清水市草薙に移設した後の1957年頃から、1962年の第3回オールアジアDXコンテストに参加中、来襲した台風でアンテナが倒されるまで、数々にコンテストに参加し、好成績を収めた。この頃の主要コンテストの結果を見ると、必ずJA2JWのコールを見つけることができる。従って、この時代が星山さんの第一次コンテスト熱中時代となる。

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ARRLインターナショナルDXコンペティションの賞状。

この第一次コンテスト熱中時代、日本でもDXコンテストを主催しようという話しが生まれ、1960年、JARL主催の第1回オールアジアDXコンテストが開催され、もちろん星山さんも参加した。現在のオールアジアDXコンテストは電信部門と電話部門が異なる日程でそれぞれ開催されているが、1973年に電話部門ができるまでは電信部門しかなく、オールアジアDXコンテストといえば、電信のコンテストであった。

[コンテスト熱が再燃]

連載第7回でも紹介したように、星山さんはこの第1回オールアジアDXコンテストで優勝し、翌1961年の第2回は僅差の2位、1962年の第3回は優勝奪回を目指し参戦中、台風の来襲でアンテナを倒されてしまい、そのショックでしばらくコンテストをやる気にはならなかった。再び星山さんをコンテストへの参加に導いたのは、榛原へのQSYであった。北側が斜面というコンテストをやるには絶好のロケーションを得た星山さんのコンテスト熱は自然と再燃していった。

さらに、星山さんは1970年にDXCCオナーロールメンバーになり、全力でやらねばならないカントリーが少なくなっていたことも要因の一つである。そんなこともあって榛原に引っ越した後の1970年代は再びコンテストに没頭することになる。この1970年から1977年までが星山さんの第二次コンテスト熱中時代といえる。星山さんは「1970年、仕事が忙しくてアルバニアのZA2RPSをやり損ねたから、コンテストで発散したんですよ」と笑いながら説明する。

まず、1962年の第3回以降参加していなかったオールアジアDXコンテストには、1971年の第12回に10年ぶりに復帰した。このときは、再び建設した2エレメントキュビカルクワッドアンテナを駆使して、この復活初戦でいきなり優勝。その後1975年の第16回まで5年連続で参戦し、5連勝という快挙を成し遂げた。一方、1974年にはオールアジアDXコンテストに電話部門が創設された。これは電話部門では第1回となるが、第15回オールアジアDXコンテストの電話部門という取り扱いであった。星山さんは、この初回電話部門でも優勝し、1960年の初回電信部門の優勝とあわせ、両部門の初回優勝という記録を残すことになった。

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オールアジアDXコンテストの賞状。

[ARRLインターナショナルDXコンペティション]

星山さんはARRLが主催するこのコンテストにもよく参加した。1957年から1961年の第一次熱中時代には、電信、電話両部門にローパワーで参加していたとの記録がある。第二次熱中時代にはハイパワーでオールバンド部門にエントリーした。その結果、電信部門では、1972年、1976年、1977年の3回。電話部門では、1972年、1975年、1976年の3回。アジア1位の成績を収め、コンチネンタルリーダーとなった。

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星山さんの優勝を報じた1975年11月18日付の読売新聞静岡版。

ある年のこと、コンテスト中に清水在住のJA2IYJ山田さんから電話がかかってきたことがあった。「こちらはコンテスト中だぞ、なんだ」と嫌々電話に出ると、山田さんは「アメリカの局とどんどんQSOしているが、本当に聞こえているのですか。うちでは何も聞こえないのですが」と聞いてきた。さらに、「1分でいいから、無線機の受信音を聞かせてもらえませんか」と頼まれたので、星山さんは、受話器を無線機のスピーカーに近づけて、受信音を聞かせてあげた。パイルになって聞こえるアメリカ局を聞いた山田さんは、腰を抜かしていたという。それだけ星山さんの榛原のシャックはロケーションが良かったと言える。

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コンチネンタルリーダーの盾を6回獲得した。

[CQワールドワイドDXコンテスト]

米国のCQコミュニケーションズ社が主催する、世界最大規模と言われるこのコンテスト(CQWW)にも、星山さんは力を入れて参戦した。第一次熱中時代は主に20mのシングルバンドでエントリーしていたが、第二次熱中時代はARRLインターナショナルDXコンペティション同様に、ハイパワーのオールバンド部門にエントリーした。結果は、まず電信部門で1971年、1972年、1974年、1975年の4回、全国1位となった。

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CQワールドワイドDXコンテストの賞状。

1976年は「沖ノ鳥島の一件があって、コンテストにはけ口を求めてがんばった」と星山さんは話す。2月、3月のARRLインターナショナルDXコンペティションは電信部門、電話部門ともに勝利を収めたが、10月のCQWWの電話部門では、JA1KSO伊藤さんとJH1ECG大辺さんに負けて3位となった。5回目の全国1位を狙った11月の電信部門でもJA1KSO伊藤さんに負けて、残念ながら全国2位の成績だった。

その他CQWWと同じCQコミュニケーションズ社が主催するCQワールドワイドWPXコンテスト。スカンジナビア・アクティビティコンテストなどにも参加し、それぞれ入賞を重ねた。1977年は、2月のARRL電信部門で、電信電話通算6回目のコンチネンタルリーダーとなったが、これを境に仕事が忙しくなり、コンテストのアクティビティが極端に下がっていった。同年11月のCQWWコンテスト電信部門に80mシングルバンドで全国1位となったのを最後に、星山さんは第一線から退くことになる。