[新職場での業務]

星山さんは、静岡通信サービスへの勤務を始め暫くして「しまった、と感じたことが2つありました」と話す。一つは仕事がポケットベルに限定されることで、初めのうちは夢中になっていたものの、「受信機だけの仕事なので飽きてきた」、「やはり自分は無線屋で受信機屋じゃない、送信機が恋しくなった」と言う。そのため暇つぶしに、営業、料金の仕事までちょっかいを出し要領を覚えてしまい、その結果、会社運行の全体を把握、将来のコンピュータ化との縁ができて、技術と電算の2部門を将来任させるようになってしまった。

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1973年〜1988年まで静岡通信サービス本社の入っていたビル。

二つ目は、入社当初の給与は電電公社時代より1割くらい高くて、手取りに遜色はなかったが、6月になって「夏のボーナスはいつ頃もらえるんですか」と山本専務に尋ねたところ、「民間会社は儲かったらボーナスを出す。できたての借金だらけの会社がボーナスなど出す訳がない」と一喝されてしまった。それでも、専務がさすがに可愛そうに思ったのか「特別だぞ」といって少しだけ出してくれたという。

しかし、幸運だったのは高度なインフレとなり、それに反比例して借金が楽になったこと、さらに親会社である電電公社が、インフレへの対応で委託費を上げてくれ、給与水準を親会社なみに確保してくれたことであった。また、1年目だけはほとんどボーナスが出なかったが、会社の業績が波に乗ってきたことから、2年目からは普通にもらえた。「インフレが味方してくれ私は運が良かったと思う」と星山さんは話す。

[水没端末の修理]

1974年7月、星山さんの入社2年目に静岡では「七夕豪雨」という大洪水が発生した。その洪水で、多くの受信機、充電器が水没して故障してしまった。電電公社からの命令は、「自然災害なので、無償で対応しなさい」ということで、星山さんたちは浸水して動作不能となった受信機等を修理した。無線機の自作や改造を繰り返していた星山さんにとって、受信機の修理等大した作業ではなく、製造会社からの部品提供もあり、約80台を修理したという。電電公社の送信アンテナが近くにあったため、「送信波の影響を避けるために、会社創立時から、社内にシールドルームを作ってもらえたことが修理を容易にしました」と話す。

当初、ポケットベルの周波数は150MHzのアナログだったが、デジタルに変更になった際に周波数も280MHz帯になった。この280MHz帯の基本波が、地域により(静岡県では西部地域)、UHF帯テレビに妨害を与えてしまうことがあった。低性能のブースターを使ったテレビだと強入力に耐えられず、ブースターが飽和することが原因であったが、テレビ局では、「電電公社のポケットベルの電波のために見にくい場合があります」というテロップを流したため、大騒ぎとなってしまった。その結果、郵政省からの指示で電波の発射を停止させられ、対応策として最終的に周波数を270MHz帯に変更する地域があったと話す。

[読売アワード]

話をアマチュア無線に戻す。読売新聞社が発行する読売アワードといえば、国内で発行されているアマチュア無線のアワードの中でも、最難関の部類に入る。世界1万局読売アワードと全日本1万局読売アワードの2種類があり、基本ルールは、それぞれ、日本以外の異なる1万局と交信、日本国内の異なる1万局と交信することになっている。星山さんが目指したのは、当然世界1万局の方であった。

世界1万局読売アワードには、1万局との交信の他、DXCCカントリー200以上、ITUゾーン70以上を含むという付帯条件があった。しかし、1970年にDXCCオナーロールメンバーとなっていた星山さんには、付帯条件は全く問題ではなかった。さらに、1万局に関しても、米国やドイツなどの多数の局と交信したため、取得していたQSLカードはすでに1万枚を超えており、残された問題は申請書の作成であったと言う。

[世界1万局を申請]

星山さんは1971年頃から申請準備を始めた。その時点で、世界1万局読売アワードはJA8AA浜さんがNo.1を受賞していて、星山さんはNo.2を狙った。しかし、申請書の準備中にNo.2はJA7FS佐々木さんに獲られてしまいがっかりしたという。一番の苦労は、QSLカードをコールサイン順に並べ、手書きで申請書に記載しなければならなかったことで、「何しろ大仕事だった」と話す。

通常、読売アワードは、2500単位で、2500局のC賞、5000局のB賞、7500局のA賞、と順に申請した後に10000局の本賞を申請する流れになっている。しかし、C〜A賞は同時に申請してOKとのことだったので、星山さんは7500局まで一気に申請。そして最後に本賞を申請し、たまたま転職と同時期の1973年2月に、読売新聞社から10000局OKの通知をもらったと言う。

[授賞式]

読売アワードには、副賞として郵政大臣賞があり、読売新聞社が受賞式を開催し、そこで本賞(世界1万局読売アワード)と郵政大臣賞を授与することになっていた。その授賞式が1973年6月16日と決まった。しかも、会場は、静岡の読売新聞社の拠点であり、星山さん勤務先である静岡通信サービスがテナントとして入っている静岡県庁前の読売ビルであった。テナントの社員受賞に、支局に勤務していた読売新聞社の社員はもちろん、静岡通信サービスの幹部もびっくりしていたと言う。

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世界一万局よみうりアワード。

授賞式には、郵政省(現総務省)から東海電波監理局(現東海総合通信局)の部長、読売新聞本社から担当課長、静岡通信サービスからは、山本専務に、電監OBの技術部長、そしてロ―カルのハム仲間数人(JA2BY、JA2HO、JA2JSF他)が招待された。もちろん読売新聞全国版にも掲載され、専務からは「お前はすごいんだなあ」と言われた。この読売アワードの受賞により、会社から星山さんがアマチュア無線に取り組むことの理解が得られ、コンテスト参加のための月曜日の休暇が取りやすくなったと話す。

[70年代に獲得したその他のアワード]

星山さんは1960年代にアワードに熱中し、数々のNo.1 JAを獲得したことは連載第6回で紹介したが、金儲けのアワードが増えたため、1968年以降、DXCC以外のアワードに関しては、あまり興味がわかなかった。1970年代に獲得したアワードは、前述の世界1万局読売アワードと、もう1枚、ARRLが発行した「BICENTENNIAL WAS」という記念アワードだけであった。ちなみにこのアワードは、アメリカ独立200周年を記念して、1976年の1年間にWAS(全米50州との交信)を完成させた局に発行されたものである。

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BICENTENNIAL WASアワード。