[静岡DXクラブ]

1970年春、名古屋から静岡に転勤してきたJA2BTV宮崎さんと相談し、静岡にもDXクラブを作ろうと「静岡DXクラブ」(SDXC)を立ち上げた。創立時のメンバーは13名、会長にはJA2BY西野さんが、エディターには星山さんがそれぞれ就任した。このクラブの入会条件は、資格が2級アマ以上、かつDXCCメンバーという厳しいもので、さらに会員2名の推薦が必要であった。そのため敷居が高く、入会するのは簡単ではなかった。

会員間の情報交換には144MHzのネットを使ったという。エディターであった星山さんは1970年5月24日付けで会報の第一号を発行したが、その後の発行を怠ってしまった。入会条件が厳しいため新しい会員も増えず、また会報も発行されない状況となったこともあり、このSDXCは数年で自然消滅してしまったという。

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唯一発行されたSDXCの会報。

[SDXRA創設]

SDXCが自然消滅した後、1974年、星山さんはJA2JSF大久保さんと相談し、「DXが好きなら誰でも入会できて、競争だけでなく、会員相互の親睦も大切にするクラブを創ろう」と行動を開始した。県内から広く会員を募集し、CQ誌やJARLニュースでの広報も行った。その結果、東は伊豆長岡、中伊豆から、西は浜松、竜洋町まで県内各地から44名もの入会希望者が集まり、同年夏に静岡市で、SDXRA(静岡県DX同好会)の創立集会を開催した。まさしく、県のDXクラブ誕生であった。

旧SDXCのメンバーもほとんどがSDXRAに移行した。創立集会では、星山さんが初代会長に、大久保さんが初代エディターにそれぞれ就任した。1975年3月には会報(Dellinger)の創刊号が発行され、その後年4回ペースでの発行が定着した。現在ではインターネットの発達により、情報の即時性が求められるようになったこともあって、会報は2005年から休刊になっている。

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SDXRAの会報「Dellinger」の創刊号。

星山さんは、「クラブの活動を通して静岡県から多くのDX愛好者が育ち、県域DXクラブとしては、アクティビティの高いクラブであったと思っている」と話す。2008年現在の会員数は34名と、創立時より少し減少はしているが、全国でも休会するDXクラブが多い中、SDXRAは依然としてアクティビティを保っている。会長には2008年からJA2BET鈴木さんが就任している。

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1976年、SDXRAメンバー達と一緒に星山さんの庭でパチンコを楽しむK7JA Chip(当時はK7VPF)。

活動の中心は、毎週土曜日に開催している21MHzSSBでのネットのほか、Eメールを有効に使って情報交換を行っている。アイボールミーティングは年1〜2回の開催。時には他のDXクラブと合同で1泊ミーティングを行うこともある。2002年には、クラブ員同士で年間DXCCレースを開催したことがあり、1位が星山さんの295エンティティ、2位がJA2BAY竹内さんの283エンティティ。3位がJA2BY西野さんの216エンティティという結果だった。「暇人が勝つんですよ」と星山さんは笑って話す。

[沖ノ鳥島DXペディション]

1976年5月、JARLは創立50周年記念事業の一環として、本州の遙か南方に浮かぶ絶海の孤島である、沖ノ鳥島へのDXペディションを敢行した。沖ノ鳥島はARRLから事前にDXCCのニューカントリーと認定されたため、このDXペディションがブランドニューの運用となった。コールサインには7J1RLが使用され、5月29日から6月2日までの5日間の運用で、73カントリー8931局と交信したとの記録がある。

経緯の詳細は専門書に委ねるが、この沖ノ鳥島がニューカントリーとして認められたことについては、ARRLが「沖ノ鳥島は、DXCCカントリー基準のマイル規定は満たしていないが、JARLの創立50周年を祝うため、例外としてDXCCカントリーリストに加える」と発表したため、DXerを中心に、「政治的にカントリーができるのは納得できない」といった声が上がり、反対運動が起こされた。

熱心なDXerであった星山さんも、ARRLのその判断には疑問を抱き、沖ノ鳥島がニューカントリーになるのはおかしいのではないかと思った。そのため、沖ノ鳥島とは交信しないことに決め、反対運動に加わったという。このことからも、星山さんのひたむきにDXに打ち込む姿が伺える。

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1976年、高岡市で開催された第19回JARL通常総会で、沖ノ鳥島に関する質問を行う星山さん。

[JARL理事になる]

星山さんは、1978年のJARL役員選挙において全国選出理事に立候補した。立候補の理由は「沖ノ鳥島の一件で、対等な会話が出来るテーブルにつき、決着をつけたかったからですよ」と説明する。開票の結果、JA1AN原さんに次ぐ2位の得票数で当選した。星山さんの他に、同じく沖の鳥島反対派のJA1BK溝口さんも理事に就任した。

一方、沖ノ鳥島からの運用は、1979年にJF1IST藤原さんによって史上2回目のDXペディションが行われたが、このときも星山さんは信念を曲げずにQSOは行わなかった。同時に、JARL理事会において、「やはりおかしいんじゃないか」との交渉を繰り返した結果、JARL幹部も理解を示し、ARRLと協議して1980年11月30日付で、沖ノ鳥島はDXCCの現存カントリーリストから削除されることになる。

1980年、早々にARRLより「沖ノ鳥島をカントリーリストからの削除」の内諾があり、星山さんは1期2年でJARL理事の職を辞することになる。理事在任中には、JARL総会の代議員制度、資格別コール発給の提案等を行ったが実現しなかった。なお、溝口さんは削除確認を見届けるためもう1期理事に残った。星山さんは、今でも「沖ノ鳥島とQSOしなかったのが私の小さな誇りです」と話す。

[70年代の思い出のDX]

星山さんは、榛原に引っ越す直前の1970年9月、DXCCオナーロールメンバーとなった。1954年の開局から16年、1958年にDXCC(Mixed)のメンバーになってから12年かかったことになるが、当時のJAでDXCCオナーロールメンバーはまだ数人しかおらず、スピード達成であった。申請時のDXCC現存カントリー数は324で、星山さんは315カントリーを獲得しての達成であった。消滅カントリーを入れるとトータル328カントリーであったという。

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1970年に星山さんが受領したDXCCオナーロールメンバー盾。

70年代の思い出に残るDX局として、星山さんは下記の4局を揚げる。なかなかパイルアップが抜けなかった1970年のYV0AI(ベネズエラ領のアベス島 14SSBでQSO)、自局の電波が届かなくて苦労した1971年の3C0AN(赤道ギニア領のアンノボン島 21SSB/CWでQSO)、かろうじてリストによるQSOができた1978年の3Y1VC(ノルウェー領ブーベ島 14CWでQSO)、アンテナがTA-33だったため受信に苦労した1979年のKP4AM/D(米国領デセッチオ島 14SSB/CW、21CWでQSO)。何れも常駐局の居ない孤島ばかりである。

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YV0AIとKP4AM/DのQSLカード。

逆にQSOできなかった思い出として、星山さんは1970年9月のZA2RPS(アルバニア)を揚げる。その頃、山原無線中継所ではテレビジョンの回線中継を行っていたが、たまたまその日はNHKのメンテナンスの日で、NHKの送信所で徹夜の作業を行っていた。「アルバニアがJA指定を行っているよ」との電話を現場にもらったが、「どうすることもできなかった」と話す。その後、アルバニアでは1991年まで20年に渡ってアマチュア無線が許可されず、いつもDXCCウオンテッドリストの上位にランクされていた。星山さんがようやくアルバニアと交信できたのも1991年であった。