「DX通信入門」

星山さんは1978年からJARL理事を務めたが、理事になった最大の目的であった沖ノ鳥島の一件に解決の目処が立ったため、1980年に退任した。しかしその後もJARLハンドブックの編集委員とか、周波数の割り当てやバンドプランを検討する委員を務めた。そんな折、JARLからアマチュア無線の正しい運用を啓蒙するような運用手引書の執筆を依頼された。しかしそれは、「私よりも適任のハムが他に居るはず」と、断った。

その後1983年9月頃、またJARLから「初級者にDXの楽しみ方を伝え、上級資格の取得に導くようなDX入門書を書いて欲しい」と依頼された。数あるアマチュア無線のジャンルの中でも一番得意なDXに関する書ということもあり、星山さんは引き受けた。本のタイトルは「DX通信入門」と決まり、たまたま翌1984年5月のJARL通常総会が静岡県で行われることが決まっていたため、本の出版日は総会に間に合わせようということになった。

[執筆に着手]

得意のジャンルであるDXとはいっても1冊の単行本を書く為の作業量は膨大で、多大な時間が必要であった。その頃の星山さんは、勤務先でのポケットベル顧客管理の電算システム化を任され、仕事が大忙しの状況であった。そのため「執筆時間の確保が一番の苦労だった」と話す。それでも、発行者であるJARLは白井さんという選任の担当をつけてくれ、一般のハムでは入手困難なIARU関係の資料の提供をはじめ、最後まできちっとサポートしてくれた。

また、「JA1BK溝口さんには、沢山の資料を提供していただいたし、その他多数の友人DXerからも資料提供、提案等で協力していただき何とかなった」と話す。文章の流れや誤字の校正等は、かつて電電公社で文書、広報を担当していた専門家が、たまたま職場におり、「その電電OBに読んでもらった」と言う。もちろん、星山さん自らも、かつてCQ誌のDXページのエディターを3年間担当していたので、「その経験が役に立った」と話す。

「DX通信入門」の表紙に使った写真は、米国在住の星山さんの実姉の主人である義理の兄から送ってもらった。その頃、日系米国人である義兄は、オハイオ州クリーブランドにあるNASAのルイスビル研究所に研究員として勤務しており、星山さんが「アマチュア無線の本を出すけど何かいい写真はないか」と相談したところ、月の裏側の写真と、宇宙から見た地球の写真を1枚ずつ送ってくれた。「DX通信入門」の性格上、EMEには触れていないので、迷わず地球の写真を選択したと言う。そのため著書には「表紙写真提供NASA」とのクレジットが入っている。

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DX通信入門(初版本)。

[多くの質問を受ける]

時間のない中でも何とか原稿を書き上げ、印刷・製本も間に合って、「DX通信入門」は1984年5月15日付けでJARLから発行された。同月末に静岡市で開催されたJARL通常総会の会場でももちろん販売することができた。出版後は、「若い読者を中心に、多くのハムから読後の感想とか質問を手紙で多数頂戴し、意外に読まれているのかなと感じて嬉しかった半面、出版物を執筆する責任の大きさを感じました」と話す。

受け取った質問にはその都度返事を出したが、質問の内容は、運用の仕方より、実際の電波の飛び方など、初歩の無線工学についての質問が多かったと言う。短波通信の常識ではあるが、アンテナが共振することと電波が飛ぶということは別の話。たとえば1m長のアンテナエレメントに、マッチング回路を使って7MHzの電波を共振させることはできるが、これでは電波は飛ばない。これらは資格を取得する教科書には出て来ないので、初心者は分からない。星山さんは、「こういったところに興味があるのか」と感じたと話す。

[改訂版の発行]

初版本は5000部印刷し、数年で完売となった。1992年、内容を当時の状況に合わせて見直し、さらに新しいジャンルの追加記述も行って改訂版を発行した。また初版本(A5サイズ)の紙質はあまり良いものではなかったが、改訂版では質の良い紙を使用した。さらに当時JARLの専務理事だったJA1DM海老沢さんから、「もっと大きくしたら」という提案を受け、本のサイズはB5にサイズアップして読みやすくしたと言う。

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表紙も一新されB5にサイズアップされた改訂版。

一方、DXの楽しみ方は年々変化しており、2008年現在では、ログソフトやコンディション予想ソフトなど、運用をサポートするコンピューターソフトの導入、さらには、どんな珍局がどの周波数でオンエアしているのか、一目で分かるWEBクラスターの閲覧が必須となっていると言っても過言ではない。このように、1992年の改訂版発行時とは、DXingにおいて大きく変わった部分も多いため、星山さんはJARLに対して、「もうそろそろ廃刊にして、新しい人に別の本を書いてもらって欲しい」と提案していると言う。

「多くの外国人ハムが訪問」

星山さんは1974年のSDXRA(静岡県DX同好会)創立時に初代会長に就任したが、1976年JARL理事になると同時に会長を退任した。それでも、SDXRAから海外に出すレターなどでは、会長名として知名度の高い星山さんの名前が使われることがしばしばあり、「ときどきニセ者の会長にされました」と笑って話す。

SDXRAは今でもそうだが、当時からDXペディションの支援を積極的に行っていた。そんなこともあって、「外国人ハムの静岡への訪問は多かった」と言う。中でもアメリカ人の訪問は覚えきれないほどあり、しばしばメンバーが、アメリカ人ハムを連れていきなり星山さん宅にやってきた。また、仕事で繋がりができたアメリカの無線メーカーであるモトローラ社のハム社員が日本出張の際、静岡まで遊びに来ることもあった。

米国人以外で覚えているのは、まずTS-520へのアッテネーター追加の部品をプレゼントしたパキスタン人。次にラオスのお役人XW8KPLインさん。「ラオスに来たら、JWサフィックスのコールサインを発給しますよ」と言ってくれたことを覚えている。その他、コールは忘れてしまったが、スウェーデン人。1991年には、ウクライナ人の有名DXペディショナーであるUB5JRRロメオさんがやってきた。静岡での歓待に感激したロメオさんは、その後の彼のDXペディションでは、「静岡オンリー」といった指定もしてくれたと言う。

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UB5JRRロメオさんとSDXRAメンバー。

女性陣では、アンダマン諸島などへのDXペディションで有名なインド人のVU2RBIバラティさん。バラティさんはDXFFの招待で来日し、JA2EZD米塚さんが静岡に連れてきたため、SDXRAのメンバーも参加して浜松でミーティングを行った。彼女は当時のガンジー首相とも直接話ができるカースト制度最上位のお姫様で、「その気品と美しさに我々一同は大変感激しました」と星山さんは当時を思い出す。

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VU2RBIバラティさんとSDXRAメンバー。右端は通訳の女性。

その他、南太平洋のピトケアン島からは、VP6DI実行グループの招待で、VP6MWメラルダさんが来日した。「彼女は訪日後に初めて見る海(駿河湾)に喜び、駿府城跡に感動した様子でした」と話す。また、メラルダさんは一部食物に対してアレルギーがあり、食事に気を遣ったことを覚えている。

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VP6MWメラルダさんと星山さん。