[Phone DXCC HR]

1970年にMixed Mode DXCCのオナーロールメンバーとなった星山さんであるが、その後も着実にスコアを伸ばし、残りのエンティティを減らしていった。それと並行して、Phone DXCCのスコアアップにも取り組んだ。その結果、1980年2月に現存312(含消滅332)エンティティのQSLカードをコンファームし、Phone DXCCもオナーロールメンバーとなった。「JA局としてたぶん7人目か8人目だったと思う」と星山さんは話す。その時点でMixed Modeは348(含消滅)エンティティに達していた。

その頃取り組んだもう一つのアワードがあった。5Band DXCCである。5Band DXCCは1969年1月1日スタートの新しいアワードで、その名のごとく、80m、40m、20m、15m、10mの5つのバンドでそれぞれ100エンティティのQSLカードを獲得することが条件の難関アワード。JA局では1972年のJA1MCU真中さんによる初受賞を皮切りに、マルチバンドDXerらによって順次獲得されていった。ところが、星山さんは当初このアワードには興味が沸かず、5バンドを意識した運用を行っていなかった。

[5B DXCCを受賞]

1969年の制定から10年が経過した頃、「皆がやっているし、いっちょうやってみるか」という気になった。その時点で星山さんは80m以外の、40m、20m、15m、10mの4バンドにおいては、1969年以降のQSOで100エンティティ分のQSLカードをコンファームしており、残っているのは80mだけという状況であった。

一方、80mでDXができるのは、秋から春にかけての冬場が中心で、コンディションが特に良い時間帯は、日の出前後と日の入り前後である。そのため、星山さんは、毎朝早起きして80mをワッチした。その甲斐もあって、星山さんは1シーズンで80mの100エンティティをコンファームし、1981年4月に#1025の5Band DXCCアワードを受賞した。JA局では30番目前後の受賞だった。「申請時には3桁の発行番号をもらえるかと思ったが、受け取ったら4桁だった。しかし、狙っていたわけではなかったので、別段悔しい思いは無かった」と話す。

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星山さんが受賞した5Band DXCCの盾。

[CW DXCC]

星山さんは、Phone DXCCを受賞したものの、運用は相変わらずCWが中心であった。その一方で、CW DXCCは1975年1月1日からスタートしていた。これは、ARRLが意図して一斉スタートとしたもので、それ以前の日付のQSLカードは使用できないルールとすることで、ベテラン、新人の区別は無く、よーいドンで始めたものだ。DXはCWで行うものと考えていた星山さんは、CW DXCCなど申請する意味がないと考え、QSLは揃っても申請は行っていなかった。

それでも、周りの局が次々に取得していったこともあり、ようやく腰を上げて、1987年に203枚のQSLカードを提出して申請。6月に#4021のCW DXCCを受賞した。一旦受賞したその後は、もちろんオナーロールを目指して突き進んでいくことになる。ちなみに、この時点で、Mixedは351エンティティ、Phoneは339エンティティに達していた。

[QSLマネージャーを引き受ける]

話は少し戻るが、星山さんは一度だけDX局のQSLマネージャーを引き受けたことがある。そのDX局とは、お隣韓国のHM4AQ(現HL1AQ)朴さんであった。1961年当時、韓国ではQSLビューローが十分に機能しておらず、このHM4AQ局に関しても、米国の局がQSLマネージャーを引き受けていた。

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QSLマネージャーを引き受けたHM4AQのQSLカード。

しかし、JAからだと米国までQSLカードを請求するのに時間がかかることもあり、「JA向けのQSLマネージャーをやってくれないか」と頼まれ、JA専門のマネージャーを引き受けた。JA以外にもソ連(現ロシア)からの請求もしばしばあり、「ログが確認できるものについては、JA以外にも発行しました」と話す。星山さんは、1970年頃まで引き受けた。

[80年代の本業]

1982年10月、星山さんは技術部長を兼務しながら、静岡営業所長に就任した。この頃は、電電公社の民営化(1985年4月)を控え、静岡通信サービスの様な委託会社も、ポケットベルの業務オンリーから、MCA(Multi Channel Access)などの業務用無線機の販売や、電話機自由化に伴う電話機販売も取り扱う体制へ変化していた。

さらに将来のポケットベル事業への新規業者の参入に対応した会社の体質改善を目的に、星山さんは1984年4月、主業務のポケットベルの技術業務に加えて顧客管理、料金請求等の電算化を実行する責任者である技術・電算部長に就任した。当時は、委託会社のどちらかというと甘い体質で、一般企業に比べて社内の電算化が遅れていたが、星山さんは1985年10月に社内のオンライン電算システムを開通させた。これは全国に16社あったポケットベルの委託会社の中でも近畿に次いで2番目の導入だったという。

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オンライン電算システムの開通記念式典。左端が星山さん。

その後、1988年3月に静岡テレメッセージが開業し、県内のポケットベル販売が競争の時代に入った。それを受け、1988年4月、名古屋にあった中部通信サービス、星山さんの勤務する静岡通信サービス、さらには日本自動車電話サービス中部支社の3つの委託会社、支社が合併して、新たに「NTT東海移動通信(株)」が設立され、ポケットベル、自動車電話、携帯電話を主力商品とした新たな委託会社体制となった。その後、1990年6月、星山さんは、同社の取締役、静岡本部技術・電算部長に就任する。

1992年7月には、NTTの移動通信事業部がNTT本体から分離し、委託会社と統合して、新たにNTT東海移動通信網株式会社(通称:ドコモ東海)が設立され、同社の取締役に就任した。星山さんは図らずも旧電電公社に戻ることになり、「私の年金は、電電公社退職時に共済から厚生年金に替わったのに、また共済に戻ったんですよ」と説明する。