[どちらが先か]

家族でDXハンティングを始めると、誰が先にやるかが問題となってくる。まず長男健さんは仙台で暮らしているため競合することはなく、次男公二さんも毎日遠方まで通勤しており、帰宅時間も遅いので競合することはほとんど無い。しかし、お互いにDXCCチャレンジアワードを意識している星山さん夫婦は、DXペディションなどで珍局が出てくると必ず競合することとなる。星山家では、特にルールを定めておらず、「見つけた方が先にやることにしている」と言う。

HFのコンディションは変化するため、節子さんはできても、星山さんはできなかったというケースが時々あるし、その逆もある。特にオープン時間が短く、競合局も多い160mや6mでしばしば起こる。もちろん、お互いに協力し合ってDXハンティングを楽しんでおり、お互いのウォンテッドエンティティは頭の中に入っている。そのため、自分がすでにコンファーム済みのバンド/モードの場合は、「当然、自分は後ですよ」と星山さんは話す。

[SSBではDPCが先]

それでは、夫婦のどちらもリグの前に居ない状況で、パケットクラスターに珍局がレポートされ、その珍局がお互いにとってニューの場合はというと、まずSSBの場合は、節子さんが先にマイクを握ってパイルを抜くことにしている。これは、同じ空中線電力の場合、女性の声の方がパイルの中からピックアップされやすいことが理由である。そうすることにより、効率的にDXハンティングができる。

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IC-7800+IC-PW1のラインナップで運用中の節子さん。

おもしろい例として、DXペディションのオペレーターが知り合いの場合で、JA2DPCがパイルを破って一旦QSOに成功すると、その次にはDXペディション局側からJA2JWをコールしてくることもあったという。なお、電信の場合は、ケースバイケースで対応している。交信後のQSLカードの整理については、それぞれ自分で管理し、自分の都合の良いように整理している。

[DPCのDXCCチャレンジ]

2001年、DXCCチャレンジアワードが制定されると、節子さんのDXハンティングに拍車がかかった。5Band DXCCには対象外のWARCバンド(30m、17m、12m)、さらには100エンティティと交信すること自体が困難な160mや6mへのオンエアも本格的に開始した。DXCCチャレンジアワードとは、160〜6mの10バンドを使ってトータル最低1000エンティティのQSLを獲得することが条件の、ARRLが発行するアワードである。

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JA2DPC局のDXCCチャレンジ盾。2500エンティティをクリアしている。

一方、節子さんはDXハンティングと並行して、1997年には、星山さんが米国のアマチュア無線試験を受験するのに同行して、ろくに勉強もしていないのに、星山さんと一緒に受験し、いきなりテクニシャン・プラス級に合格、KC8IQIのコールサインを取得した。その後はきちんと勉強して、翌年3月には一人で上級試験を受けに行き、米国では最上位のアマチュアエクストラ級に合格した。コールサインはバニティ制度を利用して、N8YLを取得している。なお、バニティ制度とは、免許申請に必要な通常料金とは別料金を支払って、好きなコールサインを取得できるという米国の制度である。

[80年代の思い出のDX]

話を戻し、星山さんの80年代の思い出のDX局は、まず1987年1〜2月に運用された、ピーター1世島の3Y1EE、3Y2GV。このDXペディションをもってピーター1世島はDXCCのブランドニューとなったため、史上初の運用であった。当然世界中のDXerが一斉にコールするためパイルアップは熾烈を極めた状況であった。運用初日になる日本時間1月24日の夕刻、3Y2GVが14.195MHz出てきて、スプリットアップの指定を行った。

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3Y1EE/3Y2GVのQSLカード。

この時、3Y2GVはどのあたりの周波数でピックアップしているか皆目見当がつかなかったが、星山さんは、3Y2GVが事前に某有名局に対して「いつものところで呼べ」と言っていたのを傍受していたので、MM(海上移動)時から使っていた14.280MHzで呼んだら直ぐにコールバックがあった。「JAでは2番目か3番目くらいだったと思う」と話す。

ピーター1世島とQSOしたい気持ちは誰も同じで、星山さんへのコールバックを聞いていたDX仲間数人からは、「どこで呼んだの」と電話がかかってきた。電話で「14.280だよと」アドバイスした局には次々に応答があったことを、星山さんははっきり覚えている。一方、7MHzのCWは翌25日の夕方、かなり早い時間に3Y1EEとQSOできた。

[3Y5X]

次は、1989年の年末から1990年の年初にかけて敢行されたブーベ島の3Y5X。このDXペディションには、沖ノ鳥島に単独で渡った経験のあるJF1IST藤原さんが参加したこともあって、「藤原さん以外のオペレーターもJAを親切にこなしてくれた。そのため、QSOに苦労した記憶はなく、7〜28MHzのSSB/CWでQSOできました」と話す。

日本に対するスタートは藤原さんのオペレーションで、日本時間の朝、7MHzSSBで日本向けの運用が行われた。星山さんは、真っ先にQSOした友人に電話で起こしてもらったが、パイルがきつかったことと、太陽も昇ってしまったので手遅れで、その日の午前中に仕留めた14MHzSSBでのQSOが1回目になったという。このQSOは星山さんのPhone DXCCのニューとなった。

年が明けて、1月6日、日本時間の夕方18時には、28MHzで北米回りのロングパスで入感してきた。これは予想していなかった伝搬だけに驚いたことをはっきり覚えていると言う。その時は、他にワッチしている局が少なく、容易にQSOができた。1989年はサンスポットサイクル22のピークであったことから、このような伝搬でも入感したものと考えられる。

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3Y5XのQSLデータ面。28MHz/CWの交信よるもの。