[大工さんに相談]

星山さんは1998年にリタイア後、無線を楽しめる時間が増え、毎日のシャックに滞在する時間も長くなった。当時のシャックは広さこそ5畳程度はあったが、ウナギの寝床のような細長い形状だったため、もう少し広いシャックが欲しくなり、大工さんに、「東側に丸太小屋の広い無線室を作り、ゲストを部屋に泊められる2階も欲しい」と別棟のシャック建築を相談した。

photo

解体中の旧家。真ん中が昔のシャック位置。

ところが職人気質の大工さんは「丸太小屋は長持ちしない。長持ちするように防腐剤を塗ると、今度はせっかくの丸太のにおいが消えちゃうし、手入れも大変ですよ。」と反対した。相談したこの大工さんには、1994年に家の一部の改築を依頼し、耐震補強や、水周りの整備をしてもらっていた事があった。相談の結果、「改築からまだ4年しか経過していないため、少しもったいないが、いっそのこと旧い家は壊して建て直そう」、と決まった。

[新築を計画]

1階のシャックは広さを15畳、内装は丸太小屋風な作りとする。寝室は12畳とする。その他、ゲストを泊められるよう、2階に10畳の和室を作る、などプランが着々と決まっていった。さらに、夏には花火を見ながら友人と一杯やれるよう、広いベランダを確保した。その他、高齢者になる自分たちが、以後生活していくのに困らないよう、1階はトイレ、各部屋、風呂場に至るまで全てバリアフリー設計とした。

さらに、各部屋は、床から天井までを3m確保し、天井の高い部屋とするなど、星山さん夫婦の希望に沿った設計となった。快適性を最重要視した1階のシャックは内装に掛川産のヒノキ丸太を使って仕上げたため、「完成から数年間は、ヒノキの良いにおいがしていましたよ。」と話す。

[配線関連]

25mのメインタワー、ならびに2本のパンザマストは移設せずに家を建て替えるという計画にしたため、ベランダにはメインタワーが食い込んでくびれた形となった。また、実際の建築時には、クレーン作業の際にアンテナが邪魔になり、水平のエレメントを一時的に垂直にして、建築に協力した。せっかくの建て直しなので、基礎を作る前に、土中に銅線、銅板を数多く埋設して、良好なアースを確保した。さらに、アンテナ用同軸ケーブル、電話線、電力線の配線ルートを整理して、電波による干渉が最低になるように配慮を行った。

photo

八木アンテナのエレメントを垂直にして、建築に協力。

新居は1999年秋に完成した。1階の15畳のシャックはリビングも兼ね、無線機の他に、応接セット、さらには仏壇も置いた。「以前の狭いシャックと違い、無線機をセットした机の裏側に廻って、配線、接続作業ができるようになり、大変便利になりました。」と星山さんは話す。同軸ケーブルは、すべて床下に配線。タワー直下から地下を通って、オペレーションデスクの下から出てくるようにした。

photo

メインタワーがベランダに食い込んだ形で完成した新居。

AC電源のラインも、ラインフィルターも入れて床下に配線した。その中でも特に無線関係に使用するACは、シャックの壁面に設置したナイフスイッチで、全て遮断できるようにした。これは、運用しない時はいつも電源を遮断しておき、ACラインから侵入してくる可能性のある雷電流からリグを守るためである。もちろん雷発生時は、同軸ケーブルも簡単に外せるように、接続には配慮してある。受信アンテナのラインも同様である。

新居完成時、大工さんは、星山さんの希望に沿って、オペレーションデスクをプレゼントしてくれた。これは天板が厚さ3cm、奥行き75cm、幅280cmの大型で、一枚板の木製机である。机の足には1辺12cmもある太柱を使用してあり、大工さんが言うには、500kgくらい乗せたって大丈夫、とのことだった。「アマチュア無線に使用する机は木製に限る」、というのが、星山さんの昔からの考えである。

photo

大工さんからプレゼントされた大型の木製デスクで運用中の星山さん。部屋の壁面には掛川産のヒノキ丸太が見える。(2008年7月撮影)

[家庭菜園]

新居の庭の一部は小さな菜園に確保した。ここは節子さんの管理下に置かれ、トマト、きゅうり、ゴーヤ、大根、インゲン豆等を無農薬で栽培し、楽しみながら季節ごとに新鮮な野菜を採集している。星山さんの役割は植替え時の土の耕しと、草取りだと言う。無農薬なので害虫の駆除が大変だが、虫を全部とってしまうと、受粉せずに実がつかないので、この判断が難しいと言う。

節子さんのもう一つの特技は魚をさばく事で、本職が使うような包丁を何種類も持っていて、大きな鰹をさばいたり、細身のサヨリをさばいては刺身を作り、芸術品みたいにきれいに皿に盛りつけると言う。「先日も釣りたての大きな鰹と格闘していたので、手伝おうかと声をかけたところ、素人は危ないからむこうにいて、と台所から追い出されてしまいました。」と星山さんは笑って話す。

[DXの魅力]

星山さんのDXの原点は、「自宅で、自分が作った設備を使って、外国と意思疎通を図ることです。」と説明する。「現在では、機械もアンテナも自作じゃないが、外国人と無線で交流するのが楽しいことは昔から変わりません。」と話す。

CQ誌1965年3月号の臨時増刊号として発行された「DXハンドブック」に「DX’er名言集」が載っており、当時活躍していたJA6PA原田さんや、JA8AQ三俣さんらの言葉が掲載されている。その中に、星山さんの言葉として、「初めがあって終わりがない、一生やりつづけてもまだ気がかりになりそうだ。」と掲載されている。「この気持ちは40年以上経った現在も全く変らない、これが私のDX観です。」と語る。

photo

1965年に発行されたDXハンドブック。

時々、DX’erと呼ばれる人の中には、Mixed Modeで全DXCCエンティティとの交信を達成してしまうと「はい、終了」、「もうやるところが無い」とぼやいて、それ以降電波が出なくなる人がいるが、それではあまりにも悲しい。星山さんは、「米国のQSLカードなど数千枚あるが、それでも、まだまだ米国やヨーロッパの局と無性に交信したくなる事があります。」と話す。

[継続した運用]

「DXを存分に楽しむには絶えず運用を行うことです。」と続ける。現在、星山さんは、DXCCチャレンジ3000の獲得に向けて、日々運用を継続しているが、これは、「節子さんから影響を受けた面も多いんです。」と話す。DXCCチャレンジが始まった頃、節子さんは、自分の小遣いのほとんどをQSLの請求費用にあて、WARCバンドでもバンドニューであればダイレクトでQSLカードを請求していた。

当初、星山さんは、「WARCを集めるのかよ」と、からかっていたが、「そのうちに自分もDXCCチャレンジアワードに嵌っていました。」と話す。DX局へのQSLカードの請求に関しては、過去に何度かトラブルがあったため、原則的には、JA2JW、JA2DPCは、別々の封筒で請求している。それでも、ちゃっかり2枚まとめて、1つの封筒で返してくるQSLマネージャーもいる。2人で大量にQSLカードを出すので、一時はほとんど毎日、外国からQSLカードが到着した時期もあった。

星山さんのDXCCチャレンジアワードの進捗状況は下記のとおりである。これを見ると、当初は、毎年いかに多くのポイントを増やし、QSLカードを入手していったかがわかる。

2000年 1065

2001年 1775

2002年 2199

2003年 2581

2004年 2642

2005年 2704

2006年 2736

2007年 2789

2008年 2831(8月現在)