[昭和29年という年]

池上済文さんは昭和29年(1954年)に鹿児島に生まれた。お父さんは小中学の教員(後に校長)であったため県内を転勤し、家族も何度か転宅を繰り返した。もちろん、池上さんには記憶は無いが、昭和29年は戦後アマチュア無線が再開されて2年ほどしか経過しておらず、JARLもキーやマイクロホンを握って間もないハムもアマチュア無線の“整備”に熱心な時代であった。

JARLはWAJA(全都道府県交信)に次ぐアワードとしてJCC(国内100市交信)AJD(国内全エリア交信)を制定。無線雑誌「CQhamradio」がJARL発行からCQ出版社へと移り、JARLニュースがCQ誌に掲載されることになった。また、サフィックスの変更があり、信越ではJA1W以下がJA0に、北陸ではJA2W以下がJA9に変わった。

ハムの活躍では庄野久男(JA1AA)さんが戦後の日本では初のDXCCを完成させ、WAJA賞では激烈な争いがあり、第一号には申請の早い村松健彦(JA2AC)さん、完成一号には時間の早かった出田喜一郎(JA6AE)さんが認定された。このWAJAの争いについては、別の連載である村松さんの「ラジオ少年・ハム・放送局勤務の人生」に詳しく触れられている。

[甑島]

池上少年も多くの「ラジオ少年」同様に小学校低学年から中学年にかけてさまざまな工作に興味をもったが、もっとも記憶に残っているのは甑島(こしき島)時代である。甑島にはお父さんが子嶽小・中学校校長として赴任したのにともない移り住んだ。池上少年が6年生になった時である。甑島は鹿児島の西40kmほどのところにあり、下甑、中甑、上甑の3つの列島からなる。自然も豊かであるが、古くからのものが残っているため、歴史、民俗の宝庫ともいわれている。

池上少年の愛読書は「子供の科学」であり、模型の飛行機、船など数多く作った。船はスクリューまで手作りし、モーターも自作だった。「小学校では模型の工作物のコンテストがあり、出品した飛行機を窓から飛ばしたことを覚えている」と言う。当然、鉱石ラジオやゲルマニウムラジオも作った。6年生になると真空管式の並3ラジオを作るようになる。使う材料や部品は離れ島には全くなく、時折、鹿児島市に出張するお父さんに頼んで買ってきてもらっていた。

小学校6年卒業写真 2列目左から3人目が池上さん

[並3、並4、高1]

「並3ラジオ」について説明すると、検波回路に検波管、増幅回路に低周波増幅管、電源回路に整流管の3本の真空管を使用したラジオのことであるが、その語源は定かではない。ちなみに低周波増幅管を2本使ったものが「並4」と呼ばれ、さらに高周波増幅管を追加したものが「高1」と呼ばれた。このようにラジオ受信機はより高感度、高音声を目指して進歩していったが、その課程で「並み=一般的」という意味で「並3」と呼ばれるようになったという説がある。

いずれにしても、戦前や戦後しばらくのラジオ少年が辿った自作の道は「鉱石ラジオ」の後に真空管に取組み「並3」あるいは「並4」そして「高1」とレベルの高いラジオを組み立てるのが一般的であった。さらにレベルの高いのがスーパーヘテロダインの「5級スーパーラジオ」であるが戦前のハムはこの段階まで自作した人は少なかったといわれている。

そのころ、離島の小さな小学校である子嶽小学校が「ソニー賞」を受賞している。昭和22年(1947年)に設立された東京通信工業(現ソニー)は、世界的なエレクトロニクス企業に育っているが、創業者の一人である井深大さんは、早くから小中学校の理科学教育の振興に力を入れ昭和34年(1956年)に「ソニー理科教育振興資金」を設立し、優秀な学校に対して資金援助を行ってきた。

その後、組織は財団法人となり名称も何度か変ったが「ソニー教育財団」となった現在では、より広範な教育支援の活動を展開している。池上さんはそのころのことを「理科の熱心な先生たちがおられ、子供たちも一緒になって取り組んだ。そのころに"科学する心を"を植え付けられた思いがする」と言う。

[自然の楽しさ]

話がそれたが、池上さんは今年(平成18年)の夏、子供たちを連れて約37年ぶりに甑島を訪ねている。「木造平屋の小学校は立派な鉄筋2階建てになっており、狐につままれている思いだった」と言う。夏休み中ではあったが教頭先生がおられて家族を校長室に案内してくれ、池上さんが在学していた当時の写真や資料を出してくれた。「ついに私が写っている写真を見つけ出して下さいました」と級友との卒業写真に池上さんは感動している。

40年前の子供時代を「とにかく楽しかった。めじろを捕まえに行って鳥かごで飼い、学校の廊下で音色(ねいろ)の競争をさせた。海ではサザエやアワビを採り、天草(てんぐさ)も採った」と言う。今回の訪問で池上さんは、自生している「鹿の子(かのこ)百合」を見つけ当時のことを思い出している。「授業の代わりに学校全体でクワを担いで山に行き、その百合の球根を掘った。学校の収入のためだった」らしい。「天草も生徒全員で何回か採りに行った。やはり学校の運営費に当てるためだった」と言う。

[鹿の子百合]

鹿の子百合は、この甑島原産の百合として世界的に知られているので少し触れておきたい。花弁は紅色地に濃赤色の斑点が鹿の紋模様のように付いており、鑑賞用として人気が高い。江戸時代の大飢饉の折りには球根が食用として掘り出されたり、その後は中華料理の食材として東南アジアに輸出されたこともあったが、池上さんの小学校時代には鑑賞用として球根を売ったと思われる。

鹿の子百合 --- 季節の花300より