[5級スーパー、真空管ワイヤレス]

池上少年は同じ下甑島にある父親の赴任する子岳(子嶽)中学校に進学。「無線クラブ」のような部は無く「剣道部」に入部、そこで活躍したが、同時に「ラジオ少年」ぶりは本格化し、5級スーパー短波ラジオを作りはじめた。「不安な気持ちでスイッチを入れたが放送が受信でき、飛びあがって喜んだ」ことを記憶している。娯楽のない離島だけに自作の短波ラジオで海外放送を聞き、遠くの国々に夢を馳せていた。

甑島列島の地図 --- 甑島観光協会ガイドより

毎晩、海外からの日本語放送やいろいろな電波を聞くことに夢中になった。BCL(海外放送受信者)ブームが訪れる少し前であった。またラジオ雑誌の制作記事にあった3本の真空管を使った中波ワイヤレスマイクも作った。「最終的に2台作り友達の家との間で交信した」と言う。「ところが電波法など知らないため、周波数は中波のラジオ放送の間であり、しかも遠くに飛ばしたい思いで、木に長い電線を張ってアンテナにした。

幸いどこからもお叱りは無かった」。さらに「学校では昼食時や昼休み時間は校内にAMラジオ放送を流していたが、近くの自宅に帰り、このワイヤレスマイクから空いている周波数で、学校向けにソノシートのクラシック音楽を流したり、アナウンスを入れたりして、先生や生徒達みんなで聞いていた」こともあった。

[アマチュア無線受信勉強]

しばらくして短波帯41mバンド7MHzで交信をしている声を聞く。「AMのきれいな声での交信であった」ことが印象に残っているという。交信を聞いていた池上少年は、それがアマチュア無線であることを知る。「楽しそうであり、遠くの人とお話ができるのはとても面白そうだった。どうしてもハムというものになりたくなった」。2年になった池上少年はアマチュア無線技士の国家試験の勉強を始める。この頃すでに「養成課程講習会」によって電信級・電話級の免許がもらえるようになっていたが、鹿児島県内で講習が行われているのかどうかの情報もなかった。

ちなみに「養成課程講習会」は昭和40年(1965年)の夏に電波法改正があり、施行されたが、実際に始められたのは翌年の3月であった。当時の講習時間は、電信級の標準コースで法規、無線工学各20時間、電気通信術25時間、短縮コースで法規、無線工学が各10時間、電気通信術2時間。電話級では電気通信術の講習がないだけで、他は同じ時間が必要であった。

このため、休日のたびに行われる講習受講のためには近くで行われている必要があり、離島に住む池上さんの場合は無理であった「講習会を全く知らなかったし、受講は考えられなかった」という。試験勉強を始めたものの、周囲にはハムはもちろん、教えを請う人も居なかった。「離島での必死の独学であった」と当時を思い出している。

[合格、ハムに]

「当時の国家試験は完全筆記試験であり合格率も25%程度でした。中学生では自分の実力の判断も出来ない」。このため「大人になってから1アマ(第1級アマチュア無線技士)の試験を受ける時よりも必死だった」と言う。受験する春休みに父親の転勤があり、川内市(現薩摩川内市)に転居する。転居の日のことを、池上さんは覚えている。「海は荒れており、六時間もかかる甑島航路の船内で揺れながらも必死に勉強をしていた」情景である。池上さんは3年から父の勤務する川内東中学校に転入する。

アマチュア無線の試験は春休み、熊本の国立熊本電波高校(現熊本電波工業高専)で行われ、電話級を受験。「問題集を徹底的に勉強しておいたが、初めての経験だったので不安でもあった。後で確認したがほぼ満点だったような記憶がある」と言う。合格証が届き「局免許の申請のため父と数多くの書類を書く。医師の健康診断書も必要であり、大変だった」ことを記憶している。

当時は受験からコールサインをもらうまで半年近くもかかるのが普通であった。「局免許の連絡が待ち遠しくて学校から帰ってると、まず郵便受けを見るのが日課になっていた」と言う。受理した免許状にはJA6NKAのコールサインが書かれており、池上少年は念願のハムになった。

[FDAM3購入]

池上さんが最初に購入した無線機は井上電機製作所(現アイコム)製のFDAM-3であった。アイコムは昭和39年(1964年)に50MHzのオールトランジスターのポータブル機FDAM-1を発売してアマチュア無線機に参入しており、FDAM-3はその後継機として昭和43年(1968年)2月に発売された。送受信にVFOを採用したのが特徴であり、モービルハムにも人気があった。池上さんは「現在も大事に保有しており当時を思い出しながらローカルやEスポで運用している」と言う。

アイコムのFDAM-3ポータブル機

もちろん、HFの固定機が欲しかったが「父親に無理はいえず、野外運用にも便利なことから選択した製品だった」らしい。VHFのため近場との交信しか出来なかったが、それでも山の上に登ったり、川や海岸近くに出かけるなど夢中になってコールした。「早くEスポが出てくれたらというのがその頃の願いであった」と言う。

[鹿児島工業高等専門学校]

中学から池上さんは国立鹿児島工業高専に入学する。好きな道を歩きたいための選択であり、「周りは普通高校に行って欲しかったようだったが、本人の好きなコースのためか何も言われなかった」と言う。同校は1、2年生は全寮制であった。

寮に入った池上さんは、すぐにアマチュア無線クラブに所属するとともに、英会話クラブにも入部する。その頃のことを池上さんは「短波ラジオ自作とBCL、そして海外交信で、とにかく海外に興味を持ち始めた。気持ちは世界に広がっていた」と言う。中学時代、英語暗唱大会で優勝したことから、英語や外国語も好きになっていた。

そのため英語弁論高専大会に出場したり、英会話の勉強にも熱中するとともにアマチュア無線の海外交信では、必死になって交信相手の英語を理解しようと聞き続けた。2年、3年の2年間はアマチュア無線クラブの会長となり、後輩を指導した。また、ローカルの非常通信訓練などにも参加したりして、地元新聞に写真や記事が載ったりしたこともあった。