[ベンチャー企業立ち上げ]

海外にあこがれていた池上さんは高専でドイツ語も得意であったこともあり、高専後の方向が決まらないまま、親戚を訪ねてドイツやヨーロッパに渡欧したことがあった。この時にスイス・ジュネーブにある国際連合の「4U1ITU」局を訪ねていが、交信はしなかった。「とにかく知らない世界をいろいろ体験してみたかった。そして将来は国際的で何か教育的な仕事をしたい、そういう気持ちになりつつあった」と、当時を語っている。

とりあえず、鹿児島市で株式会社「新産業技研」の設立をはじめた。SE・プログラマー、コンピューターやワープロオペレーター、受付業務・歯科助手などのOA関係の仕事を目指す人材を教育したり、派遣する事業が目的の会社であった。若者のベンチャー企業立ち上げが話題になりだした頃である。

このような池上さんの活動をみていた人達がいつの間にか応援団に変っていく。鹿児島の政財界で活躍している要人を紹介してくれる人も現れ、当時1千万以上の新会社設立資金を提供してくれる人も何人かあった。池上さんは同時にビジネス専門学校の講師も務めコボル言語などの教鞭もとった。やがて「鹿児島ライオンズクラブ」の会員にも推薦された。高齢者の中でひときわ若い20代の会員であった。「この頃に鹿児島の有志達から学んだことは人生の貴重な経験となった」と言う。

鹿児島ライオンズクラブの鹿児島・磯庭園での記念撮影・後列左から2人目が池上さん

[ニューヨーク州立大留学]

池上さんは決断する。米国への留学である。「米国の大学をいろいろ調べた。将来のことを考えるとニューヨーク州立大学に進むことがベターだと思われ、願書を取り寄せ準備を始めた。鈍りはじめた英語を勉強し直した」と言う。そして念願がかない米国に旅立つ。

ニューヨーク州立大学は、学生数は36万人とも41万人とも記されており、教員数も28000人、5000とも6000ともいわれるプログラム(学科)があり、世界最大の大学であることだけは間違いない。その規模を維持するためにニューヨーク州の州都オールバニーの他、バッファロー、ビンガムトン、ストニーブルックの4カ所にユニバーシティセンターをもち、キャンパスは64もある。

[優秀な高校生の留学支援]

不安を抱えて入学した池上さんであるが、持ち前の陽気で前向きな性格からすぐに多くの友人が出来、また学長をはじめ多くの先生方とも強い信頼・人間関係を築くことができた。在学中に池上さんは自身の体験を生かすとともに、大学側からの要請もあり、日本の若者の留学を支援することとなり「インターナショナル・リレーションシップ・アドバイザー、リプレゼンタティブ・オブ・ジャパン」の称号(資格)を大学から与えられることとなる。

日本全国から留学生募集・入学説明・面接・審査を行い、ニューヨーク州立大学教養課程に高校卒業と同時に直接送り出す事業であり、それが池上さんの現在の主な仕事である。池上さんが面接・審査して送り出した学生数は、15年以上の間に日本全国から300名を超しており、世界に通用する人材が育ち、様々な分野で活躍をはじめている。全国から優秀な高校生(韓国や中国からの留学生を含む)らが応募しており「出張も多く大変な仕事ではあるが、これからの若い人を育てることはとてもやり甲斐がある」と言う。

[相互運用協定]

池上さんが留学した時には、米国と日本との間にはアマチュア無線の「相互運用協定」がすでに結ばれていた。同協定はそれぞれの国でアマチュア無線の免許を取得している場合には、従事者免許と局免許の写しを提出して申請すれば無線局を開局出来るというもので、日本のハムの間では長年の懸案事項であった。その協定が結ばれたのは昭和60年(1985年)8月であり、発行は9月であった。

このため、当時米国に滞在しており米国免許の取得の暇がない日本人ハムのなかには、この制度を利用した人も多い。ただし、池上さんが当時もっていた日本の電話級の場合は米国では30MHz以上で、しかも日本の局免の周波数の範囲という制約があった。しかし、池上さんは「ほとんどアマチュア無線の世界とは無縁でいた。相互協定も知らなかった」と言う。勉学に熱中したからである。

とはいえ、滞米中に米国のアマチュア無線の姿を垣間見てきていた。日本に先行していた「フォーンパッチ」や、信号・音声だけではなく、SSTV、RTTY、FAXなどのスペシャライズドコミュニケーションが幅広く行われている姿であった。帰国した池上さんは「もう一度アマチュア無線を基礎から勉強し直して、一生の趣味としてじっくりやってみたい」という気持ちになりつつあった。

[最適ロケーションに転居]

実は池上さんの両親が定年後の住居にと選んだ場所は、錦江湾(鹿児島湾)が一望できアマチュア無線にとって理想的なロケーションであった。現在はこの自宅にアイコム製レピーターも設置している。当時、家のすぐ前には電電公社(現NTT)の海岸局である鹿児島無線送信所(JDA)の敷地があり、電信・電話による電報業務、および第10管区海上保安部の無線送信もここの無線施設で行われていた。

中波・中短波・短波と約10波を使い、東シナ海域までカバーしており「通常のラジオ放送にまでA1やA2電波が複数飛びこんでいた」と池上さんは言う。またこの無線送信所に親しいハムの方が勤務しておられ、夜勤の時に内部の無線装置や機器を案内説明してもらったことがある。現在はこの施設は廃止され広大な敷地には、鹿児島市役所の吉野支所、市の温泉付き高齢者福祉センターになっているが、全国でも珍しい「無線前」のバス停は現在でも残っている。

池上さん宅の前には元電電公社の海岸局などがあった

現在でも残る「無線前」バス停での池上さん