[出張とハンディ機]

帰国して、現在の仕事でニューヨーク州へ行くようになってから、池上さんは144/430MHzハンディ機をいつも持参するようになった。マンハッタンや市郊外でも2mレピーターがあり、よく聞こえる。「相互運用協定」で利用可能な144~145HMz帯レピーターも数多くあり、日本のコールサインW2/JA6NKAでモニタリングを出すと、日頃ありえない海外のコールサインに関心を示し、必ず誰かから応答がある。

「実は運用協定を利用して日本のコールサインで電波を出すと、ものめずらしいために応答がある。私の場合、短期のポータブル運用が多く、また、米国の免許をとると、運用協定での日本のコールが使えなくなるために免許を取らなかった」と説明する。
多くの局がまだHF帯で海外や日本とQSOしたことがなく、興味を示していろいろと話してくる。なかにはぜひ会ってみたいと、週末に車で1時間ほどかけて、滞在している大学寮に訪ねて来られ、QSLカード交換とアイボールを楽しんだことがあった。他にも忘れられないレピーターQSOがある。

[アイボールしながらの交信]

アムトラック(列車)でニューヨーク市に向かっている時に、安定して入感する145MHz帯レピーターがあったので「トレインモービルだ」とCQを出すと、すぐに応答があり、その方もトレインモービルだという。話をしているとどうも同じ列車のようだ。もしやと思い後ろを振り向くと、同じ車両の5番目ほど後で無線機を持ってしゃべっている人がいる。

スタンバイされた様子がスピーカーの音声と全く同じだったので、次に私がしゃべる瞬間にはその方の座席横に座り、到着までの約2時間ゆっくりとアイボールQSOを楽しんだことがあった。そして数週間後にQSLカードと全米レピーターディレクトリーという周波数帳が自宅に届けられた。

[1kW局完成]

平成8年(1996年)10月、2アマに合格した池上さんは翌年4月に1アマに合格。「子供の頃に海外との交信にあこがれた気持ちを思い出し、それがバネになり受験勉強に熱中できた」と言う。池上さんは欧文電信は得意であったが和文は不得手であった。和文電信をどのように勉強しようか、と悩んでいるうちに朗報が届く。

平成7年(1995年)7月、第1級アマ無線の試験から和文のモールス電信試験が削除されたからである。「最初から1アマを受けてもよかったが、万一のことを考えて順を踏んだ」と言う。1アマの欧文電信試験では「聞き漏らした箇所もあったが、文意で何とか満点が取れた」と言う。

1アマになった池上さんはすぐに500W局を申請しようとしたが、その後1kWまで許可されることを知り、1kWを申請する。アマチュア無線の出力は年代を追って徐々に高出力が許可されてきていた。1アマの出力は平成4年(1992年)に、それまで制限されていた28MHzも500Wまで引き上げられた。さらに、平成8年にはHF帯のすべてが1kWまで認められるようになった。

[九州初(?)の1kW局]

したがって、池上さんが1アマになった時には1kWが許可されるようになってわずかな期間しか経っていなかった。池上さんは一挙に出来るだけ多くのモードとバンドの高出力への変更申請を行うことを決めて、鹿児島市内のハムショップでIC-706MK2を購入し親機として局づくりを進める。「1kWの大出力のため、周囲への電波干渉には極力注意し、万全の準備をした」と言う。

電波監理局による検査では「隣の電話に障害が発生したが、用意してあったフィルターでカットすることが出来、約3時間で検査は無事終了した。正確には分らないが九州では初のアマチュア無線1kW局の開局だったと思う」と言う。この時の模様は「CQ ham radio」の平成10年(1998年)3月号に掲載された。

池上さんが買い求めたIC-706MK2

1kWの開局はCQ誌で報道された

[無線機コレクション]

1アマ取得、出力1kWの開局と、子供のころからの夢を果たした池上さんであるが、同時にもう一つの夢も時間をかけて実現した。当時欲しかったHF機をフルラインで揃えることであった。「昭和44年、中学3年生で開局し、若い時にはとても買うことの出来なかった無線機シリーズを揃えたかった」という池上さんは、国内ではハムショップで中古機が売りに出された時や、雑誌の無線機交換のページを利用してこつこつ集めていた。

また、米国に出張するようになってからは現地でも「欲しいものを見て回った。米国の方が古いものを大事にしており、日本で見つかりにくいものも見つかった」と言う。集め始めると「今逃すと再び見つけられないのではないか、とつい買ってしまった」と言う。

海外のインターネットのオークションまで利用しての収集はアンテイ-クコレクターのように思われるが、池上さんは集めたフルラインの無線機はすべて稼働品とした。このため、揃った無線機の免許は第4送信機までをもらっている。「メンテしながら集めるのが楽しかった」とそれまでの過程を語る。