[昭和6年生まれのハム]

稲葉さんは昭和6年、神奈川県の藤沢市に生まれた。戦後、アマチュア無線は昭和27年(1952年)の夏に予備免許が与えられて再開されるが、どういうわけかその後しばらくの間の開局ハムには昭和6年生まれが多い。この世代は「ラジオ少年」になるべき10歳ごろには太平洋戦争により、アマチュア無線はもちろん短波放送の受信も禁止され、さらには真空管ラジオを作ろうにも、部品類の購入が難しかった時代を経ている。

強いて理由をあげれば、その鬱積が戦後しばらくしてのアマチュア無線再開時に爆発して、一斉にに免許取得に走ったとも考えられる。したがって全国のコールサインのサフィックス2文字のハムのなかでも昭和6年生まれやその前後の生まれの方は多い。調べてみると10エリアのAAさん10名のうち2名が昭和6年生まれである。

藤沢第一国民学校6年生、前から三列目、左から5人目が稲葉少年

稲葉さんの父親は測量士であったが、稲葉さんが5歳の時に亡くなる。稲葉少年が入学した尋常小学校は、昭和16(1941年)に国民学校令により国民小学校に改められる。小さい時から工作が好きであった稲葉少年は、小学校3年か4年生のころにフォックストンで知られている鉱石検波器を使った鉱石ラジオを作り、ラジオに興味をもった。

このころに「竹竿のポールで作ったロングワイヤーのアンテナが風でヒューヒュー鳴っていたのが印象に残っている」と言う。すでに、日中戦争が始まり日米の関係が険悪になっており「金属類の供出が始まっていたため、ワイヤーに何を使ったのかは覚えていない」らしい。無線に興味をもっていた稲葉少年は「たびたび作った凧に必ず”空”と書いた」ことを覚えている。

[蒸気エンジンに挑戦]

モーターを自作し、模型の電気機関車を作り走らせたりした。「作った模型飛行機は学級で1番良く飛んだ」と言う。小学校6年。すでに太平洋戦争が始まっており、頻繁に停電が起きるようになる。稲葉少年は自転車の発電ランプを蒸気エンジンで回して、明かりにしようと考える。小学生が考えることではない発想をこのころからもっていたらしい。参考書は当時の雑誌「子供の科学」に掲載されていた「首振りエンジン」の解説記事だった。

そのためにはシリンダーにする材料が必要だったが「辻堂にあった海軍の演習地には”三八式歩兵銃”に使われている薬きょうが、演習の終わった後に落ちているのを探した。その薬きょうをシリンダーにしたものの、太さが均一でないため失敗したり、発電ランプとをつなぐベルトをかけるプーリー(はずみ車)が無い。グライダーの操縦桿を動かすアルミの滑車が見つかったが、軽すぎてプーリーにはならないため、水道屋さんが置いていった鉛の水道管を溶かして詰めこんだり、いろいろ考えたが結局完成しなかった」と言う。

[モールスを練習]

昭和18年(1943年)4月稲葉少年は高等科に進む。ちなみに、国民小学校の初等科、高等科は義務教育として定められたものの、戦時特例により義務教育から外されたといわれている。1年生の担任に逓信講習所(現在の東京電気通信大)の卒業生がやってきて、いろいろと新しい話しをしてくれ「手旗信号とトンツー(モールス信号)を教えてくれた。このころ覚えたことは忘れないため、その後役立った」と言う。

戦時中の教育には「海洋少年」育成の目的もあり、手旗信号やモールス信号が教科に取り入れられていた。モールス信号の簡単な記憶のし方は「合調語」であるが、このときの先生は「合調語で覚えてはならない、と文字とキーをそのまま覚えさせられた。それも今にして思うとありがたかった」と感謝している。「合調語」は軍隊での記憶法であるが逓信講習所では使ってはならない教育を取り入れていた。

旧陸軍の九四式三号丙無線機前面、稲葉少年が見つけた無線機とは異なる

「勤労動員」

翌年、昭和19年になると太平洋戦争の趨勢は日本が不利なことが明白になってきた。兵役で戦地に取られる年齢も高齢者にまで及んできたが、同時に国内ではそのための労働力不足を補うために生徒の動員が強化された。当初は旧制中学高学年生が対象であったが、やがて2年生、1年生にまで動員されるようになっていく。高等科1年生の動員も当然であった。

稲葉少年の動員先はNSKというベアリング工場。油まみれになって働いたが、興味をもっていた電気工作も続けていた。ある時、乾電池が必要になったが小遣が無く買うことが出来ない。「大きな電気屋の裏に捨ててある使用済みの電池に穴をあけて食塩水を注ぎ込んで活性化させて使ったりした」と言う。

同丙無線機の名板、松下無線株式会社は現在の松下電器産業

それを持ちかえったが「それも無線に興味をもつきっかけになった」と言う。積み上げられていた無線機は日本軍が使っていたもので、進駐してきた米軍が焼却するために壕から引き出していたらしい」と稲葉さんは後で推測している。戦後の混乱期であった。稲葉少年はすべてに”気転”のきく少年だった。