[夜間学校時代]

高等小学校を卒業するが、父親を無くしている稲葉さんは上級学校に進学することは出来ない。どうしたら良いか考えこんでいると、うれしい話しが飛びこんできた。退役軍人たちが創設した高等女学校が「教材係にきてくれるならば夜間の学校に通っても良い」という話しである。)

「夜学でも好きな電気の勉強ができるのは楽しかった」と稲葉さんは言う。入学したのは神田にあった電機工業学校と、法政第一工業高等学校だった。両校ともに2年生への編入試験を受けての入学だった。神田には後に東京電機大学となる電機学校があり「神田の電機学校」と呼ばれていたが、稲葉さんは「そこと良く間違えられたが、現在はなくなっている」と言う。

[法政第一工業高等学校]

稲葉さんは学ぶことには貪欲であり、もう一校にも通った。法政第一工業高等学校はすでに法政大学の傘下に入っていたが、昭和11年(1936年)に設立された法政中学が前身であった。戦後の教育改革により昭和23年(1948年)法政大学第一中学・高等学校となった。「電機工業学校では電気主任技術者の電験3種の資格が取れないことが分ったため、同時に法政にも通うことにした。授業にはキチンと出れないため、友人と組んで代返をしながら切り抜けた」と当時を語る。

当時、稲葉さんは給料が良いという理由で神奈川県・国府津にあったラジオ屋さんに転職していた。ところが「そこから学校のある東京までは通学に2時間以上もかかり、無理な生活がたたり体を壊してしまった」と言う。仕方なく稲葉さんは夜学の2校とも辞めてしまう。「したがって、私には学歴が無いのですよ」と苦笑いしつつも、少しも気にしている素振りはない。

[ビールの空き缶で儲ける]

このころ、稲葉さんの”商才”を示す話題がある。アイディアマンで手先が器用な稲葉さんは小さな事業を始めたのである。米国製の缶ビールの空き缶を短冊状に切り、それをコアにしてエナメル線を巻いたおもちゃのモーターを作った。「当時のビール缶はブリキ板でありコアにすることができた。できあがったものは闇市のおばさんに渡して売ってもらった」と言う。

戦後しばらくの間は、正規の流通ルートを経ない物を販売する業者は「闇屋」と呼ばれていたが、必要な物が大抵は安く手に入るために、国民にはありがたい存在だった。おもちゃのモーターはかなり売れたらしい。「どのくらい売ったか忘れたが、米兵が土産に買っているのを見て、実情を明かすわけにもならず密かに笑っていた」こともあった。

稲葉さんは旧日本軍の軍用無線機を収集している。写真は軍用機のプラグイン式コイル。

[日米両軍の廃棄品]

日本旧軍の無線機や廃棄品は探しまわればあちこちにあった。鎌倉は陸軍用の物資があったが、藤沢には海軍用の物資があり同じように気が向くと防空壕に忍び込んだ。「無線機は重すぎるので部品だけ持って帰った。大人は早くから無線機のありかを知っていたために高価な真空管は先に外されてしまっていた」と今でも残念そうだ。ある時、部品を探していると「ゴソゴソという音が聞こえる。びっくりして逃げ出すと、同じように部品を取りに来ていた大人も驚いて逃げ出した」と笑う。

日本旧軍の物資だけでなく、米軍の物資も当時の日本人は持ち出せるものは持ち出し、金に替えていた。ある時、かつて日本旧軍が使っていた藤沢飛行場に米軍のダグラスC3が墜落した。「米軍もいいかげんで、全員が引き上げてしまい誰もいなかった。友人は機内に忍びこみ、無線機を取り外して持ち出した」と聞かされた。

他の人も次々と目ぼしいものを取り出していた。気がついた稲葉さんが現場に到着した時は遅かった。「何も持ち出さないのは悔しかった」と言う稲葉さんはフラップに使われているジュラルミンの一部を持ちかえったが「ラジオのシャーシに使うつもりで、反りを直そうとしたが堅くてどうしても平面にならなかった」という記憶がある。

[ラジオ自作販売]

このようにして持ち帰った部品などを使い、稲葉さんはラジオを組み立てた。夜学での勉強やラジオ屋勤務により稲葉さんはラジオ回路の理論、技術については相当なレベルに達していた。戦後しばらくの間は国民にとってはラジオ放送を聞くことが唯一の娯楽といつても良かった。しかし、電機メーカーが作り販売されているラジオは物品税が掛かっているため価格は高かった。

戦後はラジオのキットが販売されており、それを組立てて販売する人はアマチュアと呼ばれていた。写真は組立てられたラジオ。

そのため、町の電気店の多くは部品を仕入れては自作して販売していた。同時にラジオの知識をもつ「ラジオ少年」や大人たちも自作して販売していた。多くは知人や友人向けの販売であったが、なかには大々的に販売して学費に充てていた学生もいた。当時のことを「部品代の約50%増で売れた」「メーカー品より音は良かった」というハムは多い。

すでに、この連載でも触れているが自作して販売することは厳密に言うと物品税法違反である。自作・販売をかぎつけられて税務署の署員が訪ねて来て調査され、税分を取られた人もいる。学生であることから”目こぼし”してもらった人もいる。さらには「物品税が掛かっている部品を使って組みたてたものであり、二重に物品税を支払う必要はない」といい、署員を追い返した人もいた。

このころの稲葉さんにはほろ苦い思い出がある。まだ、在学時代にラジオ自作のために神田小川町あたりの歩道に並んでいたパーツ・ジャンク屋に出かけることが多かった。「神田駅から御茶ノ水まで部品を探してよく歩いた。苦労しながら授業料を払っている学校が近くにありながら、そのまま部品を抱えて家に帰ったことがしばしばあった」と言う。