[米軍勤務]

昭和25年(1950年)10月、稲葉さんは米軍横須賀基地に勤務する。そのいきさつについて「基地のゲートの所に日本人募集の案内板が掛かっていた。給料も良かったため即座に飛びついた」と話してくれた。希望したのはSRF(Ship Repair Facility)艦船修理部。施設や機材の修理部門であり、得意分野は無線機として試験を受ける。

物怖じしない稲葉さんらしい挑戦であるが「試験は日本語であり英語は無かった。100点満点で合格したが、当時の年齢は19歳10カ月。20歳以上という制限があったが、成績がよかったために採用されたらしい」と言う。戦後疲弊していた日本経済を立ち直らせた”朝鮮戦争”が始まって間もなくのころである。

米軍勤務時代。仲間と相模湖にハイキング。案内に英文が見える。

米軍は戦地に兵士を送ったが、必要な軍需物資は戦地に近い日本から調達した。このため、一挙に日本の産業は活性化したが、同時に日本人の雇用も増加した。稲葉さんの就職はまさにその時期であった。仕事は電気工事を初め、無線機、ソナー、レーダー、航空機用ナビゲーション、さらに盗聴器、ワイヤーレコーダーまでも携わった。

[VHFに興味をもつ]

さまざまな修理を手がけているうちに「お前はVHFの機械を直すのがうまい、とおだてられて、VHFやUHFの無線機修理の専門になった」と言う。旧日本軍もVHFを利用していたが、米軍も船舶や航空無線にVHFを、さらにUHFを活用していた。「ちなみに航空無線は243MHz-398MHz、電波形式AMであり、終段には2C39の真空管を使っていた」ことを稲葉さんは覚えている。この時の体験から稲葉さんは後にハムになってからVHF中心に活躍することになる。

失敗もあった。米軍のヘリコプター基地のラジオビーコンの設営に出かけた時である。413KHzのトーンを出す施設であり「コンデンサーで調整して帰って来たが、2、3カ月後に横浜市追浜にあった米軍のFEN(極東放送)に混信が出る」とクレームがあった。あわてて、現地に言って調べたら「第一高調波が826KHzのFENにかぶさっていたのが分り、調整して解決した」と言う。

[アンカバー]

稲葉さんは、ある事情で旧海軍送信所の空家になった官舎に住むことになった。神奈川県の藤沢市には戦時中、横須賀海軍の鎮守府の主送信所がおかれていたが、そこの官舎に住んでいたころ、アンカバーを始めたことがある。同じ敗戦国であるドイツやイタリーが戦後ほどなくしてアマチュア無線を再開したのに対し、日本は再開運動を熱心にやっていたにもかかわらず許可は降りなかった。

官舎の地下壕からは旧軍の超大型送信機が大量にあり、また、手ごろな電鍵も見つかったため、稲葉さんは持ち出してモールスによるいたずらを始めた。すると、それを知った2軒長屋の官舎の隣人が「間もなくGHQ(米軍総司令部)との話し合いでアマチュア無線が許可されるようになるのでやめておいた方がよい」と言う。また「VHFでは飛行機の無線に混信を与えるとまずい」とも注意してくれた。

もっとも「現在では故人になられた先輩たちは、そのころ14MHzで電波を出しており、それを聞いていた」と稲葉さんは言う。ある日、その隣人が「これでアマチュア無線の受験を申請をしたらよいと申請書の雛型をもって来てくれ「私が代わって提出してあげる」と目を通してくれた。その時はうかつにも気付かなかったが、今にして思うと電波監理局の免許課長ではなかったかと推察できる。当時の電波行政にあまりにも詳しかったからである」という体験もあった。

官舎の門に掲げたJA1AIのコールサイン。昭和27年

[アマチュア無線]

昭和26年(1951年)6月、戦後初のアマチュア無線技士国家試験が行われた。前年の電波法を含む「電波3法」の施行を受けてのものであった。稲葉さんは「試験は岡本次雄(後にJA1CA)さんと受けた」とことを記憶している。ただし、鎌倉に住んでいた岡本さんを知ったのはその後のことであり、印象的な「岡本さんの姿をよく記憶していたからだった」と言う。

ちなみに岡本さんについて触れると、大正4年(1915年)生まれで、戦前は安立電気、日本電気などで無線通信機の開発に従事し、戦後はJARLの副会長を務めるなどアマチュア無線の発展に貢献した。平成16年(2004年)の9月に死去されたが。後日行われた「偲ぶ会」の席上、原昌三・JARL会長は「戦前に電気通信技術者第1級に合格しておられるが、ほとんど独学であった」と岡本さんを偲んでいる。

この2回目の試験での合格者は全国で1級27名、2級48名であり、第一回の47名、59名より少なかった。しかし、試験に合格したものの実際にアマチュア局の免許は容易に下されなかった。その間、稲葉さんは少年時代のことを思い出していた。昭和19(1944)年のころである。藤沢航空隊も特攻機出撃基地となった。

官舎の庭に建てられたアンテナ。29年の冬。屋根には雪

すでに南方の日本の占領地は次々に米軍に奪われ戦況は緊迫していた。「藤沢市は特攻隊兵士に待機中の間、休養する家庭を求めており、私の家でも母がそれを引き受けたようで時々、5、6人の若い航空兵が遊びに来ていた」と言う。そこの航空兵のなかに、福岡県でラジオ屋を営んでいた家の出で、吉岡さんという通信兵がいた。稲葉さんはその吉岡さんと親しくなっていた。

吉岡さんは稲葉さんに「戦争が終わったらアマチュア無線をやるんだとよく言っていた。同時にアマチュア無線のことを教えてくれた」と言う。幸い、吉岡さんが特攻機に乗リ出撃する前に戦争は終わったが、稲葉さんは「ハムになろうと決意した最初の瞬間だった。それから約7年。ようやく実現する時代になった。その吉岡さんはどうしているのだろう」と今でも懐かしい思い出を語る。