[JA1AI]

昭和27年(1952年)7月末、30名に予備免許が下りた。関東エリアは12名であり稲葉さんはJA1AIのコールサインをもらう。このころの局免許申請は誠に煩わしく、ほとんどラジオ放送局設立申請のような書類を提出する必要があった。当時の大半の申請者は「とにかく面倒な書類を作り、しかもコピー機もない時代であり、同じものを4通手書きした」と言う。もっとも、電波を出せる喜びでその労を厭わなかったらしい。

稲葉さんは「当時のことはよく覚えていないが、官舎の隣人が申請書の雛型をもって来てくれて、それを真似て書き入れた。その後、役所に出かけたり、郵便で送った覚えもない。やはり隣人が届けてくれたらしい」と振りかえる。さらに、コールサインのAIについても「稲葉だからIにしてくれたのではないか」と、だいぶ後になってから推察している。

[50MHz、50W]

稲葉さんが申請したのは6m(50MHz)電波形式A3、入力50W。6mの申請は7名であり、うち6mのみの申請は関東の黒川瞭(JA1AG)さんと2名。さらに、6mで入力50Wは10m、6mの2バンドで申請した近畿の島伊三治(JA3AA)さんの2人だけだった。

稲葉さんは住んでいる官舎の物置を改造してシャックとし、無線機を自作した。米軍勤務時代に修理に取り組むなど回路を熟知したVHF無線機であり、送信管に829Bを使い簡単に組み上げた。当時は無線局の”落成検査”があり、係官による綿密な調べがあった。係官は周辺の畑の中を駆け回ってスプリアス(不要輻射)を測定。わずかに条件を超えていたが「まあ良いでしょう。素晴らしい機械を作りましたね」と褒めてくれたと言う。

旧日本軍の受信機で受信している稲葉さん

[人里離れた山道]

開局したものの交信相手が居ない。6mで申請したのは関東地区で6人。そのほとんどのハムも最初はHFで電波を出しており、6mには挑戦しなかった。7MHz、14MHzのHFで開局した仲間達はすでに、国内はもちろん海外とも交信を始めていた。しかし、稲葉さんは「幸い、ハム仲間との交流がなかったので、そのような状況にあることは知らず、気にならなかった」と言う。

そのころの6m―現在では50MHzと呼んでいるので以下、そのように名付ける―については、現JARLの原昌三(JA1AN)会長の記録がある。原会長は戦前から当時の56MHzの通信機を自作しており、このため戦後も50MHz中心に活躍し、アマチュア無線雑誌「CQ Ham Radio」にVHF通信の状況を「abutVHF」のタイトルで昭和28年(1953年)から連載している。

「About VHF」を連載している原昌三・JARL会長

戦後の「VHFの歴史書」になっているその連載の書き出しは名文であり、当時の状況が的確に伝えられている。「50MHzバンドは全く寂しい。7MHzバンドを銀座通りとすると50MHzは人里離れた山道、誰かに会うと、おお、ここにも人がいたかと感激する。」という内容である。稲葉さんが電波を出したのはそれよりも約半年も前、交信相手はいなかったのも当然である。

[初交信]

同じように交信相手が居ないことに業を煮やしていたハムがいた。やはり50MHzのみで開局した川崎市に住む黒川さんである。黒川さんからは毎日のようにハガキが届き「52.8MHzで出ている。毎晩呼び合おう」と記されている。そのころ、電話を持つ家庭はほとんどなくハガキのやり取りであった。稲葉さんは「51.3MHzで出ているから」と返事を出す。

夜の9時になると2人とも無線機に向い、相手を呼ぶが「届いているのか。届いているのに相手の電波が受信できないのか、さっぱり分らない」状態だった。お互いに周波数計もなく「自分が間違っているのではないか、とお互いに疑心暗鬼になっていた。電波が出ているのは間違いないが、そもそも通話できない距離なのか、と最後にはあきらめかけた」と当時を思い出す。

開局したころの稲葉さんのシャック

藤沢、川崎間は約25kmの距離。戦前、56MHzで50kmの交信が出来た記録はあるが、2人ともそれは知らない「くる日もくる日もお互い呼び合ったが、だんだんむなしくなってきた」というある日、交信が成立する。開局して約2カ月「10月26日だった。黒川さんの声は興奮して上ずっていた。多分私の声もそうだったと思う。結局、夜更けまでしゃべり続けた」と言う。55年近くが経過した今、稲葉さんは日付、周波数、声まで鮮明に記憶している。

[無線で将棋]

50MHzについての原さんの思い出をもう少し引用すると「50MHzはガランとして誰も出てこない。50MHzはここだと知らせるためにレコードをかけて音楽を流したり、ラジオ放送を中継したり、柱時計の中にマイクを入れて、時を刻む音を送ったり涙ぐましい努力をした」らしい。わずかな交信相手が見つかるようになると「無線を使って将棋を指したりして、電波監理局から”将棋をやるとは何事か”とお叱りを受けたハムもいた。もっとも片方は注意されたものの、もう片方は何も言われなかった」と言う。

50MHzの仲間を増やすために「毎晩20時に一斉に出よう」と決めたこともあった。当時は水晶発信器を使い、逓倍して50MHzを出していたが「その逓倍を間違え32MHzの波を出しながら”CQ6m”と叫んでいた人もおり、電話をかけて”逓倍を間違えるな”と注意したこともあった。今から思うとずいぶん突拍子もないことがあった時代]と振り返っている。