[伸びる交信記録]

「一度つながると、その後は交信が楽にできるようになったが、その後も交信相手は黒川さんだけしかいない。3、4カ月は黒川さんとの交信で明け暮れた」と言う。その後しばらくして東京のハムともできるようになる。その年の末ごろには約45km離れた東京の原さんとも交信しているが、さらに交信距離は伸びていく。翌年の4月初めには大宮市の清水忠吉(JA1AV)さんと交信。その距離は約80kmだった。

この年の7月、東京の藤室衛(JA1FC)さんが50MHzで九州・八幡との間で交信する大記録を立てる。スポラデックE層によるものであり、この時の様子はこの連載の「ラジオ少年から無線通信の歴史家に」に詳しく触れている。一方、スポラデツクE層の影響を受けない”地上波”による交信もまた距離を伸ばしていた。

50MHzで九州との交信記録をつくった藤室衛さん

[箱根の山を越えた]

稲葉さんの住む官舎は高台にあり、アマチュア無線交信のロケーションとしては絶好の場所であった。また、米軍勤務も「残業は一切やめて交信に没頭した」と言う。このため、原会長の書いた連載でも「特にJA1AIのたゆまざる努力、また良好なロケーション」と記している。

スポラデックE層によらないGW(地上波)による50MHzの交信距離も飛躍的に伸びていったが、関東以外の他エリアとの交信がまだ出来なかった。このため、東海、近畿との交信が悲願となっており、原会長も「関東でも中京、関西とQSOできるとおもしろい。箱根の山は今も昔も天下の険である」と連載で嘆いている。

この年、昭和28年(1953年)の9月、稲葉さんはついに沼津市の長倉羊一(JA2BZ)さんの電波をとらえた。「BZさんが送信すれば必ず受信はできたが、こちらの電波は届かない状態が続いていた」と言う。交信に成功したのは10月。長倉さんや沼津市郊外の石川政衛(JA2CP)さんとであった。

[VHF普及を目指して]

JARLは利用の少ないVHF帯の利用を促進するため、さまざまなことを実施している。この年の5月5日には第1回QSOコンテストを開催したが、これには50MHz、144MHzも加わっていた。さらに、JARLは7月に50,144MHzの「VHF帯コンテスト」を行っている。これらのコンテストでは黒川さん、山口意颯男(JA1DI)さんらが活躍している。

HFのハムが海外とのDXに努力している一方で、VHFのハムは交信距離を伸ばすという未知の分野に挑戦していた。それだけに、HFには無い楽しみや充実感があり、50MHzに参入してくるハムが増えていった。そのなかで稲葉さんは「スポラデックE層でなく、GWでの通信を心掛けた」と言う。昭和29年(1954年)7月25日、JARLは第2回VHFコンテストを実施したが、この時、稲葉さんは再び記録をつくる。

稲葉さんの開局当時のQSLカード

[国内全エリア]

奈良市の辻村民之(JA3AV)さんとの交信に成功する。この時のことを原さんは連載で「距離、実に350km、当日の状況よりGWと思われます」と書いている。ついに、GWでのJA1とJA3とがつながったことになるが、このコンテストでは、北海道から関東、東海、関西の交信が達成され、異常伝播によるものも含め、50MHzでのほぼ全エリアとの交信が一通り終わった。

翌昭和30年(1955年)の1月3日に行われた「第4回QSOパーティ」の日、予想外のスポラデックによる異常伝播が起こり、稲葉さんは九州の田縁昭(JA6BI)さんらとの交信を果たす。このような成果をあげているうちに、いつしか稲葉さんは50MHz仲間のキー局的な存在になっていった。

原さんの連載「About VHF」は今年(2007年)2月号で646回に達した

[海外へと伸びる]

この年の11月に、関東の2局が「オーストラリアの局を受信したが、先方には届かなかった」とレポート、いよいよ、50MHz交信は海外へと舞台が移りだした。翌昭和31年(1956年)3月、九州とアルゼンチンのブエノスアイレス市とが交信。さらに、10月には米国とつながる。

稲葉さんもこの時期に米国、オーストラリアとの交信を行っているが、アワードとか記録づくりに執着しない稲葉さんらしく「そのころにはあまり夢中にならなくなっていた」と言う。代りに3.5MHz、7MHzや144MHzの免許を申請し、自作に取りかかる。「HF機は真空管813が手に入ったので作りたくなっただけ」と言い、当時もあまり運用しなかったらしい。

[KA局]

稲葉さんが免許を取得し、毎晩夢中になって交信していたのは、まだ米軍勤務の時期である。基地内にはKA2RRという米軍ハムのクラブがあった。「稲葉がハムになった、という話しが伝わると、大佐である司令官がやってきて、無線機の製作を依頼され」ことがあった。「お前もハムなら俺の無線機を作ってくれ」と言われ、稲葉さんは勤務中にも関わらず、東京の秋葉原まで部品を買いに行ったこともある。

KA局と親しくなった稲葉さんは、無線機を組み立ててあげた代わりに、バリコンやバキュームコンデンサー、空冷用真空管ソケットなどのほか、ARRLが発行している機関誌「QST」や「アマチュア無線ハンドブック」をもらっている。「当時は入手が難しかったがライブラリーに行くと1カ月遅れの雑誌類がもらえた。部品や本はその後非常に役だった」と稲葉さんは喜んでいる。