[山七商店]

稲葉さんが勤めることになった「山七商店」は米軍放出の無線機や部品を取扱い、無線雑誌に広告を掲載して通信販売も行っていた。社屋は稲葉さんの住んでいた同じ鶴見区にあり勤務するのにも便利なことも就職した理由であった。しかし、稲葉さんは「いつまでもジャンク屋のような仕事では、先行きが心配」と自社生産・販売を提案する。

その結果、初心者にも作れる送信機、VHFコンバーターのキット、ステアタイトミゼットバリコン、高周波チョークコイルなどの生産を始める。それを契機に稲葉さんは念願の事業を立ち上げることに決め「湘南高周波」を設立。米軍仲間が「製造するなら参考にしたらよい」と米国・ヒースキットのHF-VHFコンバーターを渡してくれた。

「山七商店」が雑誌に出していた広告

[アマチュア無線機]

それを参考にして国内事情に合わせたCV-10(10m用)CV-6(6m用)CV-2(2m用)の3機種を製造「山七商店」で販売する。その後に送信機3機種を販売するが、その製品の記録が残っている。昭和31年(1956年)12月に発売されたのが、3.5/7MHz、10WのTHX-1(1万4千5百円)50MHz、15WのTXV-1A(1万9千円)である。

さらに3年後に50MHz、10WのTXV-10N(1万7千円)が発売された。販売は「山七商店」や「トヨムラ電気商会(現トヨムラ)」が行った。「トヨムラ電気商会」は昭和31年(1956年)4月に設立され、当初は輸入品の無線機の販売を行うとともに部品類も扱っていた。42年(1967年)に「トヨムラ」に社名を変更。現在では国内にチェーン店をもつ一方で、東南アジアに出先を設けるなど事業を拡大している。ただし、一方の「山七商店」は無くなっている。

[急増する無線機メーカー]

わが国のハムは、JARLによる普及活動や電波法の改訂により、徐々に増加していく。昭和29年(1954年)には、それまでスポットであった3.5MHz、7MHzがバンド指定となり、翌年には50W以下の移動運用が認められ、33年(1958年)には、電信級、電話級のクラスが設けられ、開局が容易になった。

その後も一部ハムによる免許取得の講習会開催、テレビ放送による「アマチュア無線講座」などが開かれ、アマチュア無線が”人気の趣味”になっていく。その後もアマチュアバンドの拡大が進むとともに、昭和40年(1965年)には、より免許取得が簡単になる「養成課程講習会」制度が発足する。このようなアマチュア無線の急激な普及にともない、無線機を販売するメーカーも急増する。

[先行した湘南高周波]

自作に自信のあるハムがこぞって作り、販売に乗り出したためである。アマチュア無線ブームに乗って免許を取ったハムの多くは自作の経験が無く、出来合いの製品を求めるようになったのもその背景にあった。もっとも、1機種から数機種を生産して撤退するメーカーがほとんどであった。調べてみると過去にアマチュア無線機を販売したメーカーの数は100社を超えている。

結局、稲葉さんも送信機3機種を出して製造から身を引くが、昭和31年(1956年)の送信機市販は極めて早かった。この年までに送信機の販売を始めていたのは春日無線工業(現ケンウッド)とジェレクトロカンパニーの2社であり、湘南高周波と同年の発売は三田無線研究所のみであった。多くのメーカーが参入したのは昭和35年(1970年)以降であった。

[JMHC加入せず]

昭和30年代から40年代にかけて、50MHzでの活動を積極的に行ったのは車に無線機を積みこんだ「モービルハム」と呼ばれる人たちであった。昭和34年(1959年)東京にMHC(モービルハムクラブ)が生まれる。その後、この組織はJMHC(日本モービルハムクラブ)へと発展し、全国をまとめる組織こそできなかったが、各地ごとのクラブが発足する。

稲葉さんも「スバル360を買い求め、無線機を積み」モービル通信も楽しんだ。しかし、JMHCの会員にはならなかった。「JMHCが51MHzを占有し始め、会員外をはじき出していたり、交信しながらログ(交信記録)を付けないやり方が気にいらなかった」と理由を説明する。

スバル360に無線機を載せた

[JA1IGY]

昭和32年(1957年)稲葉さんは結婚する。「山七商店」経営者夫人の妹で、当時は英文タイプライターのタイピストの仕事をしていた。この年は稲葉さんにとっては慌ただしかった。JARLは、災害などの非常時の通信確保のために中央局を設けることになり、日本赤十字社の一角を借用することになった。

昭和28年(1953年)6月に九州中・北部が大水害に見まわれ、再開されたばかりのアマチュア無線が大活躍した。昭和30年(1955年)前後は、全国各地が水害、地震による大きな被害を受けていた。戦後の産業・経済の停滞から河川の水害対策にまで手が回らないこともあり、被害は大きかった。日赤は非常時のアマチュア無線の威力を知り、JARLとの協力を深めつつあった。

また、昭和32年(1957年)7月から翌年12月の「IGY(国際地球観測年)」にJARLは文部省から依頼されて電離層、電波伝播状況調査を行うことになり、JA1IGY局を立ち上げて、50MHzでの自動送信を始めた。同じく、IGYに協力して南極での観測の目的で文部省は昭和基地を設けたが、日本―南極間のアマチュア無線交信も企画されていた。

日赤本社内にできたJARL中央局 JA1RL/JA1IGY--- アマチュア無線のあゆみより