[林さんからの誘い]

アマチュア無線機の製造を止めたが、引き続きアマチュア無線機のキットを「ハムキット」の名前で製作してトヨムラを通して販売したこともある。先にも触れたがこのような仕事をしている稲葉さんにハムのOM(先輩)がさまざまな話を持ち込んでくる。ソニーの特機部門からも「ソニーの仕事をしないかという誘いもあったが、ソニー在職のOMハムからは”ソニーの仕事をすると他社の仕事が出来なくなる可能性もあるので良く考えた方が”」と言われた。

一方、日本ビクターからは林一太郎(JA1BZ)さんから話しがあった。勤務地は地理的にも自宅から近くでもあったうえ「家庭的で温かい会社」という誘いだった。林さんは明治44年(1911年)生まれで、戦前は昭和5年(1930年)に免許を取りJ1EIとなり、昭和9年のプリフィックス変更によりJ2HKとなったわが国ではハムの先駆者の一人であった。

WAJA第一号となった村松さんは林さんのお世話にもなっている

[林さんとビクター]

林さんのことについて少し書き進めると、昭和5年の免許取得は横浜高等工業電気化学科に在学中と見られ、卒業後に一度古河電気工業に就職したが、昭和10年(1935年)には日本ビクター蓄音機(現日本ビクター)に移っている。戦後も日本ビクターに在籍した林さんは免許再開後ふたたびハムになった。

面倒見の良い人柄であり、稲葉さんのみならずハム仲間を日本ビクターの関係会社に世話したりしている。JARLでも早くから活動し、昭和29年(1954年)にはWAJA審査委員長として、面倒な問題を裁いたことで知られている。この問題とはWAJA完成第一号を巡る争いであり、その詳細はこの連載である村松健彦(JA2AC)さんのハム人生を記した「ラジオ少年・ハム・放送局勤務の人生」に詳しく触れている。

林さんは同時に日本ビクターの業務でも成果をあげており、昭和29年(1954年)度にパースペクタインテグレーター国産化に対して「日本映画テレビ技術協会技術開発賞」を受賞している。林さんと稲葉さんとのつながりは「アマチュア無線機にトランジスターを使うにあたって新製品の情報や半導体の特性、回路について、日本ビクターを訪ねて話したのがきっかけ」と言う。

日本ビクターで技術者を指導する高柳さん。浜松市博物館のパンフレットより

[一次下請に]

林さんは、社内の各部門に声をかけて試作や設備の設計製作などの仕事を回してくれた。先に触れているが、日本の産業経済は朝鮮戦争をきっかけとして立ち直り、電機業界も積極的に新事業に取り組み始めた。日本ビクターも同様であった。オーディオメーカーであった同社は、次々と新技術を開発、また、映像分野では世界的なテレビジョン開発者の高柳健次郎さんを迎え、白黒テレビ受像機、カラーテレビ受像機、VTRの製品化に取り組んでいた。

稲葉さんが携わった昭和30年(1955年)の前半も、レコードのEP盤、ステレオLP盤、それに付随したプレヤー開発に加えて、やがて始まるカラーテレビ放送に備えて受像機、さらにはVTR開発が始まり、多忙を極めていた。アマチュア無線機や関連部品の製造を手がけ、エレクトロニクス製品には不可欠になりつつあった半導体も使いこなせる稲葉さんの力を林さんが認めてくれたのであった。

ただし、不思議なことに当初は下請としての明確な契約もなかったらしい。「今、思い出してもなんとなく仕事を手伝うという話しだけで、日本ビクターとのつながりができ、はっきりした契約ではなかった。おもしろそうだから手伝おうと決めて始まった」と言う。どうやら、稲葉さんの個人的な技術能力を見込んでの話しから始まったといえる。

昭和35年(1960年)第1次下請として登録される。「もっとも小さな一次下請会社だったと思う」と言うが、貢献が認められたからである。稲葉さんはそれを契機に有限会社[湘南高周波研究所]とする。社名は後に高周波技術である無線機の仕事から音響、映像機器へと広がり、また業容も拡大したこともあり株式会社「湘南高周波」に発展させている。

[ラジオ受信関連の開発]

ほどなくして稲葉さんに要請されたのは、FMチューナーの開発であった。国内のラジオ放送はAM放送が始まっていたが、より音質の良いFM放送が始まることになり、昭和32年(1958年)まずNHKが放送をスタートさせた。このFM放送に対する期待はとくに若者に高く、また、当時ステレオと呼ばれていた高級オーディオ機器には受信機能が必須条件になろうとしていた。

林さんの下で仕事をしていた石田一(JA1AAU)さんから「研究用サンプルとして先進国の米国製のFMラジオを緊急に手に入れたい」と相談される。稲葉さんは横浜・本牧に住んでいた米軍のハム仲間に頼み、PX(米軍基地内の売店)からFMラジオを入手し、中身のシヤーシのみを提供した。「今思い出してみると、これが日本ビクターとの正式取引の最初だった」と言う。

実は、稲葉さんはその前にFM放送受信をねらい自身でFMチューナーを自作していた。当時はFM用のバリコンが市販されていなかったためそれも自作している。「内径8mm位のアクリルパイプの中に、ボリュームのシャフトを切り落とした6mm径の真鍮棒を入れ、ダイヤル用糸を取り付けて、同調を取るようにした」と、その時のアイディアを話してくれた。

この自作のチューナーを使い稲葉さんは「12月24日のFMラジオ放送開始の電波の受信に成功している。後に、あるコイルメーカーからこれと同じ構造をもったFMチューナーキットが発売されているが「先進国の既存の技術を取り入れることが、信頼性、安定性に優れていた」のが当時の日本であった。

日本ビクターのデジタルオーディオプレヤ―。FMチューナーはこの中に組み込まれるほど小型化した。