[50W-50Wアンプ]

オーディオの世界もトランジスター回路を採用する時代となったが、この分野でも稲葉さんは高出力アンプの開発に手を貸している。当時の日本ビクターのステレオは世界市場で高いシェをもち、技術的にも常に先端的であることが要求されていた。「最初は出力段のトランジスターに高出力のものが無く、苦労した」とその当時を回顧する。

まだ、円盤レコードがオーディオのソースであったころ、日本市場では普及しなかったが欧米ではオートチェンジャーがもてはやされていた。ターンテーブル上のレコード盤の演奏が終わると、上方に重ねられているレコード盤が次々とターンテーブル上に自動的に降り、連続してレコードの再生が出来る仕組みであり、日本メーカーが主に供給元になっていた。

稲葉さんはそのリモコンを作り上げた。聞きたいレコードを再度演奏させたり、聞きたくないレコードの演奏を中止し、次ぎのレコード盤を操作させて演奏させる制御などが離れた場所から行えるものであり、オートチェンジャーの付加価値を高めたアイディア機能であった。

昭和40年似発売した日本ビクターの業務用VTR  KV-700

[高柳健次郎さん]

稲葉さんの開発受注は、無線、オーディオにとどまらなくなった。日本ビクターがカラーテレビの次期商品としてVTRに取り組むなど映像技術分野に力を入れ始めたからである。この映像技術分野で活躍したのが世界的なテレビ開発者であった高柳健次郎さんであり、戦後すぐの昭和21年(1946年)に日本ビクターに入社していた。

高柳さんは戦前に、世界でもトップレベルのテレビ送受信の技術開発を成し遂げたものの、太平洋戦争により放送開始直前に計画が中断、高柳さんは電波兵器の開発のために海軍技士として徴用されている。さらに戦後はGHQによりテレビ開発研究は禁止されたため、NHKを去り、日本ビクターに顧問・テレビジョン研究部長として移り、幅広く映像関係の開発に携わることになった。高柳さんについては、この「週刊BEACONのエレクトロニクス立国の源流を探る」に詳しく書かれている。

[VHSビデオ]

白黒、カラーとわが国のテレビジョン放送は進んでいくが、次ぎの課題が映像を録画する技術開発であった。録画機器の無い放送初期の番組はすべて生で送られ、ニュース番組はフィルムに撮影して記録、放送されていた。安定した録画、再生をねらい昭和34年(1959年)高柳さんは2個の磁気ヘッドを使ったヘリカルキャン方式のVTRを開発。この方式はその後のVTR重要な技術となった。

日本ビクターはVTRの商品化に乗りだし、昭和38年(1963年)に1インチ幅テープを使うKV-2000、41年(1966年)には2分の1幅テープを採用したリール式のKV-800を発売。いずれも業務用であり高価な商品であった。この技術が家庭用として結実したのが昭和51年(1976年)のVHSビデオHR-3300であった。

VHSビデオの第一号HR-3300。昭和51年

[ドロップアウトカウンター]

VHSビデオが登場すると「湘南高周波」は、日本ビクターの技術陣と連携しVHSテープの基本規格に関わる一連の測定器開発を進めることになった。開発された代表的なものが「ドロップアウトカウンター」や「透過率計」などであった。VTRの映像、音声信号は磁気が塗布されたビデオテープに記録される。その磁気が物理的な衝撃や結露などにより欠落したり、性能を失うことが「ドロップアウト」と呼ばれる。

「湘南高周波」が開発したドロップアウトカウンター

「ドロップアウトカウンター」は、ドロップアウトになっている磁気層の深さや長さを測定するもので、測定結果は数値として表示される。一方、テープやテープカセットは光線を使って操作されるようになっている。このため「透過率計」はその光透過率や光漏れを数値的に測定して評価するために必要なものであった。

VHSビデオの開発メーカーとして、日本ビクターは繊細な映像、音声を録画・録音、再生させるためにテープをはじめ、使用部品の品質を厳しく規定することにしていた。「湘南高周波」は、若いハムを中心に優秀な技術者を採用しており、これらの開発した測定器の生産を任されている。稲葉さんは「そのころから私は一線を退き、電子回路については技術者に任せ、機能・構造の・開発・設計に専念していた」と言う。

日本ビクターはVTRの次ぎの映像記録媒体としてVHDを開発した。「絵のでるレコード」といわれ、録画の出来ない再生専用のビデオとして、一時は普及が始まり、カラオケ装置としても利用された。ディスクに記録された信号を静電容量の変化によって読み取るため、外部からの電波の影響を受けやすく、稲葉さんはその対策のための電波妨害検査装置を開発した。

さらに、オーディオの記録媒体がレコード、オーディオテープそしてCD(コンパクト・ディスク)の時代になると、「湘南高周波」はオーディオ信号を記録する前のCDの検査装置を作り上げる。CDはディスク上に繊細なピットを開けて、光ピックアップで読取る。ピットを形成させるディスク表面のコーティング材の均一性を調べる装置である。

[入退出もフリー]

アンテナから始まり、無線機、音響機器、映像機器にまで、稲葉さんは多彩な技術能力を発揮した。しかも、依頼されたら断らずにやり遂げてしまう稲葉さんに、次々と開発依頼があった。誠に多忙であり、睡眠時間を削っての開発も多かった。「いろいろやることがおもしろかった。最先端の開発だけにやりがいもあった」と、当時の多忙さも意に介していない。

ある意味では社員以上の活躍だけに、事業部や工場内でも稲葉さんの顔は知られ、入口の守衛所もフリーパスとなった。労働組合運動が激しかった昭和30年代のある時、組合が工場のロックアウトを挙行し、約1週間も出入りが出来なくなった。それでも組合員に知己の多い稲葉さんの出入りは自由であった。「仕事で入門する必要のある幹部を車に乗せて出入りした」こともあった。