[稲葉さん無くしてビクターなし]

このように稲葉さんの評価は日本ビクター内で高まる一方であった。なかには、稲葉さんに半分は敬意を込めてではあるが「稲葉さんがいなければビクターはたちいかない」とまで言ってくれる人もいたらしい。下請の仕事に加えて稲葉さんはさらに多忙な道を選ぶ。昭和45年(1970年)に日本ビクターの特機特約店にもなったからである。

特約店になるきっかけは、日本ビクターが取扱っていたフイリップス社の放送局用カラービデオカメラのメンテナンスを依頼されたからである。すでに放送局ではビデオ撮影を行っていたが、民間では映像を記録に残しておくことは"夢"のような事柄であった。当時はまだVHSビデオのない時代。日本ビクターは自社の業務用VTRとセットで売り込みを始めた。

[撮影技士に]

ねらったものの一つが結婚式場での挙式の撮影。結婚式場に売り込むことを計画した日本ビクターは、ビデオカメラの扱いにも詳しくなっていた稲葉さんに売り込みのための撮影を依頼してきた。実は稲葉さんは30歳代から8mフィルムを使った映像づくりが趣味であった。後には16mフィルムの映像づくりにも挑戦しており、動画撮影のノウハウももっていた。

「最初の横浜・中華街にある有名な中華料理店での仕事は忙しいので断ったが、次ぎに依頼された仕事は上層部からの依頼でもあり、断れなかった」と言う。全国に知られている箱根の冨士屋ホテルでの挙式撮影である。「冨士屋ホテルが導入してくれると他のホテルにも売り込みやすい」という願いに、稲葉さん自身「当時350万円するビデオカメラを買わされ、挙式の撮影をした。撮影費は2時間の相場が2、3万円であったが、8万円もらったことを覚えている」と言う。

完全装備で赤岳の西壁をを踏破した。昭和60年頃

[アマチュア無線中断]

昭和33年(1958年)電波法の改正が行われ、それまでの1級、2級の2クラスであったアマチュア無線免許に新たに「電信級」「電話級」が加わることになった。より容易にハムになる道をつくるためであった。これにともない2級の条件が変更され、旧2級は「電話級」に移行することになり、新2級になるためには5年間の間に電信の試験に合格することが条件だった。

稲葉さんは「正確な年月は忘れた」と言うが、もともと電信(モールス信号)に自信のあった稲葉さんは新2級になろうと受験を計画した。この時にトラブルが起きた。「すでに故人になられたJARLのある役員の方が不必要な、求めてもいない行動を取ったのである。受験当日、稲葉さんは社用で出席が出来ず受験しなかった。「ところが合格したことになっていたらしい」ことを知る。

このため、稲葉さんにはまったく責任は無かったものの「試験も受けていない稲葉が合格している。おかしい」と指摘された。潔い稲葉さんは釈明することなしに新2級の合格通知を送り返すとともに「もう無線は止めよう」と決意し、局免許の更新もしなかったため、コールサインを失う。その後、昭和60年(1985年)JARL事務局のハムから「旧コールサインが復活する。開局の申請をしたら」と勧められて再開局をしている。この年、一時的に旧コールサインの復活申請が認められたのである。

[白馬村に別荘]

昭和47年(1972年)、ハム仲間に誘われて稲葉さんは長野県白馬村佐野地区に土地を求める。「安い土地がある。仕事ばかりでなく、生活に余裕をもたそう」と3人で共同購入し、別荘を建てる計画が生まれた。しかし、他の二人の都合が悪くなり結局稲葉さん一人が500坪(約1650平米)の山林と200坪(660平米)の宅地を購入。まず、平屋の家屋を建てる。

白馬村に稲葉さんが設けた別荘

その後夏は避暑、冬はスキーと子供たちを連れてしばしば利用するようになったが、佐野地区は山に阻まれテレビ放送の難視聴地区。かつて、共聴設備が作られたことがあったが「どういうわけか業者が放りだしてしまい、荒廃して何年も放置され住民はあきらめていた」と言う。稲葉さんが電界強度を測定したところ1.5km離れた標高1300m程度の尾根で、東京のテレビ放送が受信できることがわかった。そこで、難視聴地区の103戸に提案し、テレビ共同視聴設備を設けることにした。

現在の稲葉山荘

[テレビ共聴設備立ち上げ]

地元に共聴組合を発足してもらい、信越電波監理局への申請は旧組合の有力者にお願いし、稲葉さんは設備の設計をし設備を立ち上げ、メンテナンスは引き受けることになった。が、その後は大変だったらしい。積雪期の故障修理には"かんじき"を付けて出かけたこともある。「お蔭で冬山の体験が出来、山の魅力を知り一通りの登山用具を揃えた。そのうち山男グループとの交流も生まれ、岩登りまでやる」ようになり、その結果「アマチュア無線から遠ざかっていた代わりに、登山が趣味になってしまった。」と言う。

そのテレビ共聴設備を利用したある試みを稲葉さんは提案する。スキー場の様子をテレビカメラで撮影して、それぞれが自宅で監視出来るようにしようと計画、住民は賛成してくれたが、陸運局の許可が得られなかった。ちなみに、この共同視聴設備は、約10年後に新たにケーブルテレビが開設されるまで利用された。

この設備の運営も稲葉さんらしいボランティアとなった。設備・機材は実費のみで提供し、工事などは地元の労力と稲葉さんの奉仕で進められた。このため、今でも地元では稲葉さんを知らない人はいないほどの"有名人"となっている。