[奥さんを失う]

稲葉さんは多忙のなかにもかかわらず結婚式場でのビデオ撮影の仕事を続け、ついには友人とそのための会社を設立し、その後、この仕事を約10年間続けている。そのころのことを稲葉さんは「カメラを回していて、いつも考えていたことは“女房を亡くしたばかりの男が何でこんなめでたい出来事を撮っているのだろう”ということだった」と思い出している。

多忙な事業に明け暮れていた昭和54年(1979年)10月5日、予想もしなかったことが稲葉さんに起こる。奥さん・教子さんの44歳での急死である。昭和32年(1957年)10月9日、ソ連の人工衛星からの信号受信の慌ただしいなかで結婚式をあげて22年。「子供たちも大きくなり余裕ができたこともあり、教子にとっては初めての兄妹だけの4日ほどの旅行に出かけ、無事帰って来たその夜のことだった」と言う。

稲葉さんの思い出は続く。「ともに苦労し事業も順調に発展し、出来なかった新婚旅行を翌年4月にスイス行きと決めた矢先の出来事だった」と稲葉さんは未だに悔やんでいる。悲嘆に打ち沈んだ稲葉さんにとって、それと対称的な楽しげな結婚式の撮影は皮肉な仕事であった。その10年後に稲葉さんは再婚することになるが、それも亡くなった教子さんの不思議な引き合わせであった。

3歳、7歳のお子さんのお祝いを、教子夫人と

[子連れで仕事]

稲葉さんが独立して間もないころである。「銀行からの融資もままならず、経営は苦しく夫婦二人だけで仕事をしていた」昭和34年(1959年)長女が生まれる。稲葉さんは長女が幼稚園に入園するまでは車に乗せて、日本ビクターに打合せに出かけることがしばしばあった。「少しでも妻に仕事や家事が出来る時間をつくりたかったからだった」と、当時を振りかえる。

「日本ビクターはそれを理解してくれる会社だった」と言うが、車の中に一人残された幼子を心配して、勤務の合間にそっと世話をしてくれる女子社員がいた。偶然にも高柳健次郎さんの下で働いていた女性であり、その後は稲葉さんの家に遊びに来りして、教子さんとも親しくなっていた。その女性・由美江さんは昭和40年(1965年)に結婚のために退社し、稲葉さんとの連絡も途絶えてしまっていた。

美江夫人とお孫さん

[20年前の年賀状]

その後、稲葉さんは奥さんを亡くし、一方の由美江さんは離婚。そのような事情はお互いに知るよしもないまま20年以上が経過。昭和63年(1988年)7月、由美江さんは母親を亡くし悲嘆に暮れる日を送っていた。その年の秋、不思議なことが起こる。由美江さんは「教子さんの夢を7、8回も続けてみました。私は若いころから少しばかり霊感が強かったので、何かあったのでは、と感じました」と言う。

「教子さんのことを気にして過ごしていたある日、私物を整理している私の足下に1枚のハガキが落ちてきました。それは、20年以上も前に"湘南高周波"名で届いていた年賀状でした。もう、何としても連絡を」と、受話器を取り「多分、会社はもう無いだろう、と考えながらダイヤルしました」と言う。電話番号も変わっていなかったが、あいにく稲葉さんは外出中、電話口に出たのが長女の優子さんだった。

久しぶりの会話の後、優子さんは「母は10年前に亡くなりました」と悲しそうに話してくれた。由美江さんは「大きなショックを受けました」と言う。その後、稲葉さんと由美江さんは25年振りに再会し、しばらくして結婚。今、稲葉さんの家のリビングには奥さん教子さんの遺影が掲げられており、稲葉さんは由美江さんとともに毎日手を合わせ、命日にはお墓参りを欠かさない。

[初荷式]

特約店の話題に戻る。その頃の事業以外の思い出としては「初荷式」と「地引網招待」があると言う。現在ではあまり見られなくなったが、かつて販売業界では新年早々に、その年初めて届ける商品を「初荷」にして取引先を巡回訪問していた。トラックにのぼりを立て、ハッピ姿での儀式的な巡回である。日本ビクターも各特約店をトラックを連ねて回ったが、横浜地区では最後の訪問先が「湘南」と決まっていた。

「毎年、午後に会社に到着することになっており、近くに車が連なり社員がその側で景気付けの"気勢"をあげる。周辺の人たちがいつもびっくりしていた」という。それが終わると、稲葉さんは全員を社内に呼び入れて慰労の宴を催す。帰り際には会社前の道路に勢揃いし"手締め"をした後に引き上げていくのが例年のことであった。いかにも稲葉さんらしい配慮の一こまである。

[地曳網]

面白いことが好きな稲葉さんらしい顧客招待の催しも行われた。昭和55年(1980年)から始めている「地曳網招待」である。江ノ島に藤沢時代から親しかった網元がおり、稲葉さんは取引先や関係者を招待して網を引いてもらった。その後、浜辺で収穫した魚を天ぷらにしての飲み会である。「150人くらいを招待し、朝から楽しんでもらった。網元も時間を延長してくれたり、捕れた魚を刺身にしてくれるなどのサービスしてくれた」と言う。

招待したなかには、稲葉さんと気心の知れた付き合いをしていた「藤沢鳶(とび)職組合」の仲間もおり、手を貸してくれていた。「今にして思えば」と稲葉さんは言う。「妻を亡くした翌年であった。鳶の親しい組頭(かしら)が稲葉を元気づけようとこの企画を提案してくれたものだった」と。サラリーマンである日本ビクターの社員は鳶職人に対して「最初は近寄り難くしていたが、やがて親しげにビールを注ぎあうなど宴会は盛りあがった」らしい。

ついでにいうと、鳶職組合の仲間は教子さんの四十九日、埋葬の日の法事にも組頭ら3名が参列している。「"野辺の送りの木遣唄"を納めてくれた。哀調のある唄に江戸っ子であった教子も安らかに旅だったと思う」と稲葉さんは感謝したが、参列者も大きな感銘を受けている。ただし地曳網は「網元の病気や、網小屋の場所に江ノ島水族館が造られたこともあり、7、8年前に止めた」と残念そうだ。