[40年ぶりのミーティング]

最初の「VHFミーティング」がいつ開催されたか今では明確ではない。稲葉さんの記憶によれば「戦後、アマチュア無線が再開されたが、VHFを利用するハムが少なかった。そこで昭和29、30年頃に原さんからVHFハムのミーティングをやろうではないか、と話しがあり、自然発生的に集りが出来た」らしい。会場はレストラン東京。「今は亡き方を含めて30名くらいが集った」と言う。

その後、会は昭和40年代まで続けられ「気がむくと集まり、年2回以上集りがあったのでは」と稲葉さんは振り返る。したがって、昨年の再開はほぼ40年ぶりになるが、きっかけは有坂英雄(JA1AYZ)さんからの便りだった。昭和32年(1957年)に開かれたVHFミーティングの雑誌掲載コピーとともに「サイレントキー(故人)となられたOMが多い」という手紙だった。

稲葉さんは原会長にそのコピーと「開催したらいかがでしょう」と打診の連絡。原会長も大賛成で「1番古いコールもつ稲葉さんが発起人をやってくれませんか」と依頼される。告知のため「CQ誌でPRを図るが反応が無いため、古いログやコールブックを参考にしてダイレクトメールを送る」などして、ようやく開催にこぎ着けた。

ミーティングでは、それぞれが思い出を語り時間を超過するほどまでに盛りあがったが、なかでも神奈川県のハムからは、稲葉さんの過去の活躍が続々と披露された。稲葉さんは「集るかどうかわからない状況の中での開催。当日の運営、疲れたが、後日に励ましの電話や手紙が届き、ほっとした」と言う。同ミーティングは今年(2007年)も稲葉さんらが発起人となり、6月2日に横浜で開かれることになっている。

「音と映像の保存庫」開所式でのテープカット。左から2人目が稲葉さん

[音と映像の保存庫]

平成16年(2004年)5月18日。この日、日本ビクター大和工場で「音と映像の保存庫」の開所式が行われた。「保存庫」の名は直截過ぎるが、要は同社の商品の歴史館である。展示されている商品は約400点。創業から現在までのオーディオ、テレビ、ビデオ、業務用機器から設計用の測定器までが揃っている。実は、戦後の商品のほとんどは稲葉さんの寄贈によるものである。

すでに触れたように、稲葉さんは同社の幅広い商品開発に携わってきた。開発に必要とした商品を残してきたほか、手がけた開発品はもちろん手元にあった。また、特約店の立場では客先の設備の入れ替えなどの際に、使っていた旧製品を引き取ってきていた。さらに日本ビクターの期末の社内整理の折などには「試作品を処分するが捨てるのはもったいない。稲葉さん引きとって欲しい」ということがしばしばあった。

「日本ビクターでは、どうも古い商品を残しておこうという意識が無く、いつのまにか貴重な商品が私の所に集ってしまった」と言う。このため、稲葉さんもその商品の置き場に困り、白馬村の山荘に運び展示を兼ねて保管するようにしていた。ある時、山荘に招待した日本ビクターの元取締役が「ここに置いていただくより、日本ビクター社内に展示室を作り、多くの人に見てもらったら」と言い出した。

日本ビクターには定年退職した元社員の会として「寿会」があるが、その「寿会」が日本ビクターに働きかけるとともに、稲葉さんに商品を提供してくれるよう要望し「音と映像の保存庫」の設立となった。当然のことながら、その開所式には稲葉さんも来賓として招かれ、また「保存庫」の説明パンフレットにも寄贈者として稲葉さんの名が記されている。

[多彩な趣味]

稲葉さんはアマチュア無線、ビデオ撮影、登山、岩登り、スキー、写真、俳句、オートバイと多彩な趣味をもつ。オートバイは稲葉さんがヤマハのテストライダーと親しかったことから病み付きとなったが、今では若くなければできないオートバイ、スキー、岩登りはやめている。登山はある時、カメラを構えたまま後ずさりし段差に気付かずに転倒、アキレス腱を切ったのを機会に断念。

かつてオートバイを乗りまわしていた時代の稲葉さん

ビデオ撮影は現在も続けている。「おもに山の映像を撮り、音楽を入れて編集し「お身体の具合が悪く自然などに接する機会の少ない方や、高齢者・俳句仲間の方などに観てもらっている」そのために使うBGM曲はすでに200曲ほどの使用許諾権をもらっている。また、当然ながらビデオの編集装置はプロ並の設備を備えている。

稲葉さんのビデオ編集システム

[句作]

時には、映像づくりを頼まれることもあるが「その場合には実費をいただいている」と言う。納得いく映像づくりのために寒い雪山で「朝焼け」の情景を撮ったり、風に木々がゆれる瞬間をとらえるために、何時間も待つこともある。一方、俳句は現在の奥さん由美江さんが日本ビクターに勤務していた時代に誘われたのがきっかけだった。

由美江さんは「由美女」の俳号で俳句会に入っていたが、その時に誘われて稲葉さんは入会。「再び作り始めて5年以上になりますが、うまくなりません」と言う。最近でも吟行に出かけて句作に励んでいる。「乗り遅れしバスを落ち葉が追いかける」数年前に奥多摩の山歩きの帰りに詠んだ句である。

[土木工事現場]

趣味と同様、稲葉さんの経験した仕事の幅も広い。昭和23年ころの話しである。女子高の事務職を辞め次ぎのラジオ屋勤務までの数カ月、稲葉さんはお兄さんの経営する工務店を手伝ったことがある。「業績は極めて悪く、常用の作業員を雇えない。幸い、すぐ近くに職業安定所があり、その日の仕事にあぶれた労働者が立っている。“立ちんぼ”と呼ばれていたその人たちを使う仕事をしたことがある」と言う。

稲葉さんはまだ10代。「まったく世間知らずの私は虚勢を張り、外見だけでも肩を怒らせ工事を進めざるをえなかった」と言う。「怖いおじさん相手に、決められた区割りの仕事をこなすシステムであり、緊張の毎日だった」と振り返っている。それだけに「家に戻って、VHF受信機のグレードアップに没頭したことが大きな息抜きになった」と言う。