[アマチュア無線活性化のために]

稲葉さんは今後のアマチュア無線について「振りかえってみて、アマチュア無線の醍醐味は無線機の自作だった。今はトランジスターやICの時代であるが、真空管であれば自作に挑戦できる古き時代の人は少なくない。問題は真空管を始めとする部品の手当と、完成した無線機の認定検査。JARLを巻き込み、できることからやってみたい]との構想をもつ。が「多分理想に終わるでしょう」とやや悲観的ではある。

年々減少しているアマチュア無線人口に歯止めをかけようと、各地で努力を重ねているハムは少なくない。稲葉さんが考えているのは常設無線局を設けて、若い人が気軽に遊びに来れる場をつくろうとの夢である。交友の広い稲葉さんはある大きな「お寺講」にも参加している。「曹洞宗」のこのお寺は南足柄市にあり、その辺りでは有名なお寺で、地元の人々が信仰より労働で奉仕しており、稲葉さんは世話人を引き受けている。ちなみにその檀家寺は鎌倉にある義経にゆかりの「真言宗」の満福寺である。

[出づくり小屋]

「信仰にはかかわり無く楽しいお付き合いが出来る」と講への参加も稲葉さんらしい。講仲間とも、また、お寺の雲水達の食料需給のために農地を提供している篤志家の方とも親しい関係にある。稲葉さんの夢はその畑地にある「出づくり小屋」に無線局を開設することである。「出づくり小屋」とは、農作業のための農具などを収納するために農地に建てられた小屋のことである。

稲葉さんは今でも古い電子機器の修理に取り組んでいる。自宅地下室には製作スペースをもつ

「無線には大変良いロケーションであり、若い人に無線の楽しさを知ってもらうために、そこに開局できれば」との強い願いを持ち続けてきた。ところが、最近、その地主の方が亡くなり「どうしたものかと悩んでいる」と言う。

一方、稲葉さん個人の挑戦として考えているのは周波数別の電波伝播状況調査である。現在、稲葉さんは毎週水曜日に130kmほど離れた山梨県北社市の局との間で定時交信を行っている。その結果、10mW、A3でR5の受信実績を確認している。「相互間にある樹木の茂り具合に影響を受ける、と考えられが、6m、2m、430MHz、1.2GHzの同じ時間帯での飛びを調べたい」という計画である。アマチュア無線を始めた当初、稲葉さんは、これらの周波数で交信に苦労したことを思い出しての発想である。

[人に喜ばれたい]

長年続けてきた仕事を離れて自由になった稲葉さんであるが、それでも「忙しい。時間が欲しい」と言う。昨年解散した「湘南」の後始末もある。社内の什器・備品の整理、法制税制両面での処理も急ぐ必要があるからである。その忙しいなかでも次々と新しいことに挑戦している。つい最近も「半導体の勉強をしなければ」と、トランジスターの技術雑誌2冊を買い求めている。

日本のハムの団体であるJARLを指揮している原会長は80歳を超えた今でもアマチュア無線のために走り回っているが、気心の知れた稲葉さんを「万年青年」と言う。何が稲葉さんを駆りたてているのか。稲葉さんは「人が喜んでくれることは自分自身が喜べるので」と事もなげに言う。

[母親の教え]

幼児期、教師だった母親から稲葉さんは厳しい躾を受け、幼少期には人間関係を教えられている。「生きていくために正直であり、良い意味で人に媚(こび)なさい。自分が休んでいるのはハンモックに乗っていると考え、そのハンモックの端は木につながっていると思ってはいけない。人が支えてくれていると考えて、手を離されてしまうような事のないようにしなさい」と。

後に稲葉さんは「“媚びる”とは、人とともに自分も喜ばせてもらう事をすること」と理解する。このため、これまで紹介してきたように稲葉さんは、過去も現在でも人から頼まれたことは全力をあげてやってきた。人が喜んでくれると、さらに次ぎのこともしたくなる。「苦痛ではなく自らも楽しくなる」稲葉さんの生きざまである。

稲葉さんのシャック

[談合の話しは二度とするな]

「人とともに喜びたい」稲葉さんであるが、道義に外れた事には「人一倍強い怒りを爆発させる」とも言う。10数年前のことである。機材納入の入札についての説明があり、その後ある業者がひそひそと談合を持ち掛けてきたことがある。そこで稲葉さんは周囲に聞こえる大声を出し「○○社さん、嘗めるんじゃないよ。おれは小さな会社とはいえ社長なんだ。あんたは何なんだ」と叱りつけた。

そして、言葉を継いで「談合を持ち掛けるなら堂々と社長が話しを持って来い。無礼者。談合などの話しは二度と持ち掛けるな」と言い放った。「こんな調子でこれまで生きてきたので、人に多々迷惑を掛けていることもあると思っている」とも言う。由美江夫人には「お父さんはケンカ早いから子供の時と同じ。直しなさい」と諭されているらしい。周囲は「それも稲葉さんの魅力」と評する。

[俳優になり損ねた]

昭和22年(1957年)稲葉さんが職を求め、夜学に通うことを考えていた時代である。測量士であったお兄さんの知人が松竹大船撮影所に勤め、録音部門で働いていた。その人に誘われて松竹の入社試験を受けたことがある。「丸い大きなテーブルに囲まれた中央に座らされて、口頭試問(面接)を受けた。ただし、仕事の性質から夜学に通うのは無理と言われたのでその場で断ってしまった]と言う。

その時「帰り際に渡されたお車代が、働いている高等女学校の教材係の給料より多かったことを良く覚えている」と言う。口頭試問を終えて正門を出ようとすると稲葉さんを呼びとめた人がいる。その人は道を隔てた喫茶店「田園」に稲葉さんを誘い、コーヒーをごちそうしてくれ「君はひょうきんだから私の相手子役にならんかね。学校にも行けると思うよ」と、独特のアクセントで誘った。

稲葉さんは「それも断ってしまったが、その人は何と、名優だった笠智衆さんだった」と言う。「あの時、お受けしていたらその後の人生はどうなっていたのか」と、稲葉さんは時々思い出すことがある。