小林さんがラジオ受信機と出会ったのは、昭和20年(1945年)の8月上旬、終戦が近い頃であった。小学校6年、夏休み中である。8月1日深夜、新潟県の長岡市は米軍の焼夷弾爆撃を受けて市街地は焼失。「60Km離れていた新潟市からも空が真っ赤になっている様子がわかった。」と小林さんは記憶している。そして「次ぎは新潟の番だな」との近所の大人の発言に、爆撃を受けても仕方ないと覚悟したという。

当時から新潟は港湾設備が整っており、補給の重要な場所であった。このため、戦況が悪化してきた戦争末期には新潟港を封鎖する目的で周辺に米軍が爆撃機B-29から大量の機雷を投下。これに対して、日本軍は高射砲陣地を増加させた。そのうち、港の入り口は米軍の爆撃で沈没した船で埋め尽くされるようになり、小林少年は「高高度を飛行機雲をたなびかせて飛ぶ米軍のB-29の編隊を恐る恐る見ていた。」と思い出を語る。

昭和20年8月に布告された疎開指令。

8月6日、広島市に特殊大型爆弾が投下されたという話しを自宅裏山の高射砲陣地の兵士から聞いたが「次ぎは新潟市だ。」との観測もささやかれていた。新潟市民に対して県知事から市外の親戚の所に避難するよう指示が出される。多くの人達は昼間を避けて夜間に身の回りの物を持って疎開を始めた。

しかし、小林さん一家は行く当てもなく市内にとどまった。市内は無人状態となり、盗難事件も発生し、心細い状態だった。裏山の兵隊さんたちからは「危なくなったら陣地に逃げて来い。」といってくれたが、火災が起きたら海岸へと逃げようと決めていた。その時に、近所の方からラジオを預かって欲しい、使っても良いからといわれ、電気のきている時(当時は停電も多かった)にはラジオ放送を聞いた。

この頃、ラジオはよほどの金持ち以外は持つことができなかった。といっても、放送電波が米軍機の方向探知に利用されることを避けるため、毎日正午に短いニュースがあり、それで終了だった。娯楽番組も天気予報も当然なく、空襲警戒警報の放送は随時行なわれていた。そのため、常に電源を入れたままにしており、「千葉県の房総半島方面よりB-29飛来の放送があると、新潟地区も要注意ということがわかってきた。」と、小林さんは思い出している。

後になって、そのラジオは「戦時標準型」と呼ばれていた並4、0-V-1方式であることを知った。周波数ダイヤル、感度調整、音量調整、スイッチがついており、兵隊さんの中に操作がわかる人がいて常時聞こえる状態に保ってくれたという。この時、小林少年は「ラジオは便利なもの。いつかは持ちたい。」と思った。

8月15日、終戦の日。天皇陛下ご自身がマイクを通して放送される「玉音放送」があると知らされていたため、自宅には10名ほどの人が集まり、ラジオに聞き耳を立てたが、録音盤(かってのレコード盤に録音した)を使ったこともあり、雑音がひどく聞き取れなかった。兵隊さんたちは日本が負けたとはいうものの市民は信じられず、しかも、翌日には日本軍の飛行機が飛んできて「日本は負けていない。戦争は継続している。」とビラを撒いたりしたため、実情がわからなかった。それでも徐々に敗戦であることがはっきりし、その日の夜は安心して眠ることができたという。

当時、ラジオ放送は日本放送協会(現在のNHK)のみであり、全国各地の放送局がすべて、米軍の方向探知に利用されないよう800KHzの全国統一周波数編成に基づいて送信していたことを後にNHKの資料で知った。新潟放送局JOQKは昭和6年(1931年)11月に開局し、出力は500W。市内の中心部高台に局舎もT型のアンテナもあった。奇しくも昨平成13年(2001年)は開局70周年に当たり、記念式典が行なわれた。

昭和58年、東京で「世界アマチュア無線國際会議」が開かれ、小林さんは特別参加を許された。