JA0AD 小林勇氏
No.2 戦前の信越のアマチュア無線
日本放送協会(NHK)が新潟放送局を開局した昭和6年、信越地区のアマチュア無線界はどうだったのだろうか。手元に「無線と実験」昭和7年1月号の付録であった「日本陸上私設無線局名録」がある。新潟放送局の開局月と同じ11月時点のリストであり、吉村順一さんが調査した内容を「無線と実験」の編集部が、逓信省の公報と後に「宮井ブック」として有名になった宮井宗一郎さん製作のコールブックと正誤対照して作られた。「宮井ブック」については、別の連載「関西のハム達。島さんとその歴史」に詳しく触れている。
長野県
氏 名 | コールサイン | 免許取得日 | 住 所 | 備 考 |
宮澤友良 | J2CC | 5. 5.16 | 諏訪郡平野村 | その後J1GD、J2IY/JR0DDV |
林 太郎 | J2CG | 6. 9.15 | 諏訪郡平野村 | |
北澤俊三 | J2CI | 7. 3.25 | 上田市原町 | |
石井秀一 | J2CK | 9. 5.14 | 長野市御所長 | 新潟、大阪J3GD、J6DB |
村澤繁雄 | J2CT | 5.11.19 | 伊那郡赤穂村 | 当初電話局 |
堀内 安 | J2HC | 5. 4.21 | 東京市外田無 | 当初電話局、東京在住J1FS |
新潟県
氏 名 | コールサイン | 免許取得日 | 住 所 | 備 考 |
西巻正郎 | J6CE | 6. 7.10 | 南蒲原郡三条町 | その後東京 |
斎藤 政 | J6CN | 7. 9.19 | 新津町 | その後仙台J6EA |
安藤一弥野 | J6CP | 8. 3. 8 | 古志郡新組村 | その後東京 |
小田荘六 | J6CX | 6.12. 2 | 新潟市学校町 | J2NW |
小片良一 | J6CZ | 9. 5.14 | 三島郡日越村 | J2NX |
大湊吉春 | J6DD | 9. 9.18 | 南蒲原郡加茂町 | J2NY |
桑田正信 | J6DF | 9.11.10 | 刈羽郡北條村 | J2MM |
中村義雄 | J6DG | 9.10.31 | 岩船郡村上本町 | J2NZ |
西丸政吉 | J6DK | 10. 7.23 | 新潟市東堀前通 | J2MN、JA0CA、JA1NCA |
佐藤倉治 | J6FG | 三条町南四日町 | JA0VR | |
伊勢明好 | J2IP | 15.10.10 | 葛塚町上町 | JA0HG |
菅原精一 | J2OC | 11.12.15 | 新潟市西湊町 |
長野県/新潟県の戦前のハムリスト
それによると、昭和6年11月には長野県に宮澤友良(J2CC)さん、林太郎(J2CG)さん、新潟県には西巻正郎(J6CE)さんの3名がおられた。わが国のアマチュア無線局は昭和2年に免許が下される。アマチュア局かどうかの議論のある局もあるが、この年にコールサインを取得した個人は11名。先行して免許を取得した2名に次いで、JXAXの草間貫吉さん、しばらくしてJXBX~JXHXの7名が、さらにJXIXの笠原功一さんが許可を受けている。
いずれにしてもこの年の局免許はJLのプリフィックスが2名、JXのプリフィックスが9名ということになり、信越地区には免許局はない。翌昭和3年(1928年)にはプリフィックスが変更される。ワシントン条約により、局のプリフィックスは国別の標識の次ぎにエリア別の数字を入れることになったためである。この結果、J2は東海、北陸、長野県となり、J6は東北と新潟県となった。
その後、新潟、長野両県のハムは増加を続けていくが、日米開戦が避けられそうもなくなった昭和15年(1940年)秋頃から、アマチュア無線の免許条件や運用にさまざまな制約が課せられ、ついに昭和16年2月末には免許が行なわれなくなった。戦前、免許を取得した信越地区のアマチュア無線局はどれほどあったのだろうか。
戦後、発足したJARL新潟クラブは、平成10年(1998年)に創立50周年を記念して「JARL新潟クラブの誕生とその前後」を発刊している。戦後、信越地区で第1号のアマチュア無線局を開設し、昭和49年から52年の4年間JARL信越地方本部長、JARL理事を務めた阿部功(JA0AA)さんが中心となってまとめたものである。それによると、戦前の新潟県のハム11名の名前と住所が記されている。一連の「宮井ブック」や昭和14年(1939年)に発行されたJARLの「日本及び満州国所在・短波長無線実験局名録」、そして、戦後になって藤室衛(JA1FC)さんが作り上げた「戦前のハムリスト」を丹念に調べて見た。その結果「新潟クラブ」に記載されている11名の内、佐藤倉治(J6FG)さんのみが見つからなかったが、その佐藤さんを含めると戦前の新潟県のハムは12名となる。
JARL新潟クラブ50周年発行の記念誌「JARL新潟クラブの誕生とその前後」
戦前はプリフィックスの変更は頻繁に行なわれた。昭和9年2月、J1はすべてJ2となったが、昭和11年(1936年)10月には、仙台逓信局の所属であった新潟県のJ6もJ2に変更される。この結果、J2のエリアは関東、東海、北陸、信越と巨大な地域を占めることになる。また、当時の免許制度は「電信(CW)のみ」「電話(音声)のみ」と「電信・電話」そして「受信のみ」の4種があった。短波帯の受信にも免許が必要であったが、おもしろいことはコールサインは「電信局」と「電信・電話局」に与えられたもので、「電話局」にはなかった。このため「電話局」は本名で交信せざるを得なかった。そして、昭和9年に「電話局」にも呼出名称を廃止し、コールサインを付与している。
このような2つの事情により特に新潟県の戦前のハムを探し出すことは他のエリアと比較してやや面倒でもあった。途中で廃止しない限り、皆がJ6とJ2の2つのコールサインをったことになったからである。さらに、新潟県の人は東京、長野県の人は関西に転居する人が多く、戦前のハムは頻繁に移転をしている。このため、長野の石井秀一(J2CK)さん等は、戦前だけで3つのコールサインを持っていた。