小田さんは昭和16年、新潟県立新潟工業学校の嘱託となるが、18年10月に陸軍技師に任命され、ジャワ軍政監部造船局に勤務。高等官5等少佐待遇だったという。戦後、県警察に復職し、北海道、東北、東京都、関東管区の警察庁や警察局の通信部長を勤め、昭和39年に福井工業大学の講師となり、昭和50年に勲3等瑞宝章を授与されている。小田さんは平成12年2月に死去されたが、平成13年3月に発行された「RAINBOW NEWS」NO.20に3男の小田武夫(JA0ECJ)さんが「父の思い出」を寄せている。その中で武夫さんは「父は仕事が忙しく、私が物心ついた頃にはアマチュア無線から遠ざかっており、実際に運用している姿は記憶にない」と記している。小田さんが新潟-佐渡との間で交信に成功した56MHzの送受信機は、当時の軍は「実用性がない」と判断したため、手元に残っており、その後JARLの展示室に寄贈されている。

「JARL新潟クラブの誕生とその前後」で紹介されているもう一人が西丸政吉さんである。西丸さんは戦後に若いラジオ少年を指導し、多くのハムを育てられた。いわば、戦前と戦後のつなぎ役を果たした人である。西丸さんは大正4年(1915年)に新潟市に生まれた。幼い頃から物をいじるのが好きで、物心付いた時には工作を楽しむようになった。

昭和5年頃にはそれまで熱中していた模型からラジオに興味を持つようになる。見えない電波がラジオによって音声に変わる不思議さにとりつかれた。日本放送協会(NHK)新潟放送局が開局した昭和6年を前にして、周辺ではラジオ受信機が話題となっていたこともあった。西丸さんは最初は鉱石ラジオ作りから始め、真空管を使用した電池式、さらに交流式へと作るラジオはグレードアップしていった。昭和7年(1932年)に日本放送協会に就職、昭和12年に退職し陸軍航空本部に応召。前年の11年には北海道の陸軍特別大演習にはアマチュア無線家10名で「愛国無線通信隊」を組織して参加している。

西丸さんがアマチュア無線に興味を持ったのは昭和7年頃。この頃には免許を受けたアマチュア局は全国に約100局、受信専門局が40局に達していた。これらアマチュア局の交信を聞いた西丸さんはその虜になり、昭和8年に受験するものの和文電信で失敗、再度、10年に私設無線電信電話施設願を提出、その年の7月23日にJ6DKで許可を得ている。開局当時のリグは送信機が245ハートレイ真空管、変調112A-245真空管を板の上で組立てた「まな板式」で、コイルは銅パイプ、RFC(高周波チョークコイル)は試験管に絹巻き線を巻いて作り上げた。受信機は224-227-227真空管を使った1-V-1(高周波1段・低周波1段)だった。初めてコールしたら「いきなりハワイのK6局が呼んできたのでびっくりした」という。アンテナは20mのツエップで、雪が降ると電波が飛ばなかったり、断線したりして苦労したらしい。

西丸さんはHF帯でDXに熱中したが、その中で一番の思い出は昭和11年(1936年)8月のドイツオリンピックの時だったという。この時、ドイツアマチュア無線連盟は「DJDCコンテスト」を実施し、わが国もこのコンテスト参加者だけには土曜、日曜は時間制限をはずしてくれた。「午前1時頃マダガスカルFB8ABとのQSOに続き、CQ de J6DKと(モールス信号を)叩くとヨーロッパや南米、アフリカから次々に呼ばれ実にわくわくし、一晩中DXを稼ぐことができた」と語っている。西丸さんはこの時にWAC(Worked・All・Continents=世界6大陸との交信)を完成し「DJDCコンテスト」では日本で2位となった。

左から小田さん、西丸さん、中村さん、阿部さん(昭和53年)

日中戦争で中国にいた昭和13年に漢口で「前線JARL大会」を開催した。その時の記念写真はJARLが発行した「アマチュア無線のあゆみ」に掲載されており、月日は11月30日、出席者6名全員もわかっている。後方の壁には「前線JARL大会」のタイトルが掲げられ、激務の合間を縫ってのひとときの安らぎが感じられる。

漢口で開かれた「前線JARL大会」。左から4人目が西丸さん。---JARL発行「アマチュア無線のあゆみ」より

この写真は大阪の山本信一(当時J3CS)さんの提供である。内地に帰り水戸の陸軍航空通信学校に勤務の後、昭和19年(1944年)にハルマヘラ島へ航空隊として転出し、そこで終戦を迎えている。ハルマヘラ島は現在インドネシアに属しており、太平洋戦争末期には米軍の攻勢を食い止めるため、大陸から部隊が転用されてきた。途中で輸送船が攻撃を受けたりして、上陸できたのは一部であり、その後は輸送ルートが絶たれ食糧難に直面した。米軍の上陸はなかったものの爆撃があり、戦闘での戦死者よりも餓死や病死者の方が多かったという。