戦後、昭和21年5月に新潟に帰った西丸さんは、11月に大和デパートでラジオ店を開業し、船舶無線関係の修理保全、トランス製造なども手がけた。店のショーケースには戦前の「J2MN」のQSLカードが展示されていたため、戦前のハムや戦後の無線愛好家が徐々に集まり始めるようになった。昭和23年になるとクラブを結成しようとの声が高まり、1月に大和デパートで第1回のミーティングを開催し「新潟クラブ」を発足させた。事務所を大和デパートラジオ部に置き、責任者に西丸さんを選出した。昭和24年に新潟通信工業に勤務するが、27年に新潟市内の営所通りでラジオ店を開業。しかし、昭和30年(1955年)の新潟大火で店舗を全焼。昭和32年FEN(米軍の極東放送網)新潟局に勤務したが、翌年にはFEN新潟局廃止にともない東京局に転勤。その後は埼玉県の飯能市に住所を定めた。

西丸さんも小田さんが死去した平成12年の8月に亡くなられ、同じく「RAINBOW NEWS」NO.20に3男の西丸三善さんが「父 西丸政吉とアマチュア無線」を寄稿している。その中で「昭和20年8月10日に、父はハルマヘラ島でメルボルン放送を聞き、日本の無条件降伏を知り部隊長に報告した、ことをよく語っていた」と記している。実際の終戦より5日も早く情報を掴んだことになる。また、昭和39年の新潟大地震では「知らせが入るやいなや勤務先を1週間以上休み、リュックサックに食糧を詰め、被災地に非常通信の手伝いに行った」ことにも触れている。

「RAINBOW NEWS」にはサイレントキーとなられたハムの名前が記載されているが、No.20の最後には、新潟のハム3名が並んでいる。★印は、No.19以降に亡くなられた人達。

実は、平成12年8月、同じ年の同じ月に新潟の戦前のハムの一人も去っていった。新潟市の中村義雄さんである。やはり「RAINBOW NEWS」の同じ号に笠原孝明(JH0IAM)さんが「中村義雄さんJ6DG、J2NZを偲んで」の一文を寄せている。笠原さんはその中で「(昭和10年代の初期)中村氏が西田亮三(J3GA後J2LV)氏に宛てたQSLカードがJARL展示室に収められていますが、ていねいな筆跡で“最初のQSO栄光に存じます”と記されており、中村氏の誠実な人柄を物語っております」と思い出を語っている。中村さんは、戦後には西丸さんとともに「新潟クラブ」発足に関わっており、新潟県のアマチュア無線の発展に貢献した。

さらに、笠原さんの文章を引用すると「50年近くの年齢差のある私に対してもていねいな受け答えをして下さり、私もついつい中村氏に甘えて戦前の無線界のことについてあれこれとお話を伺うことができました」と書かれており、「戦前の堀口文雄(J5CC)さんや大河内正陽(J2JJ)さんはいつも大変強力な信号でした。女性ハム第1号の杉田千代乃(J1DN)さんは大変に声の美しい方でした」というようなことを聞いたと記している。調べてみると、終段入力ではあるが、堀口さんは1500W、大河内さんは800Wの送信機で交信していた。そして、笠原さんは「20世紀最後の年となった西暦2000年、新潟県のアマチュア無線界は、中村義雄氏の他、小田壮六氏、西丸政吉氏と3名の大先輩を同時に失う悲しい年になりました」と結んでいる。

その他の新潟のハムについて触れてみると、昭和9年9月に免許を取得した大湊吉春さんは大正6年生まれであり、当時長岡工業の学生であった。また、菅原精一さんは新潟放送局に勤務しており、技術レベルは相当なものだったと想像される。新潟県で最初にハムとなった西巻さんは、学術の道を歩んだ。戦後、創刊された「CQ ham radio」の創刊号(昭和21年9月号)に、西巻正郎さんは東京工業大学助教授の肩書きで「スピーカーの研究/マグネチックの改良について」を寄稿している。同誌には、創刊号らしくJARLの会長となった八木秀次さんが「アマチュアの心」アマチュア無線の“神様”のような存在であった笠原功一(J2GR)さんが「アマチュア・ラジオの新しい第一歩」をそれぞれ掲載している。西巻さんの論文は音質の良いダイナミックスピーカーと比較して、音質の悪いマグネチックスピーカーも改良によって高音質になることを解説したものであり、物理特性を数値を用いて解析した当時にあっては立派な内容である。

「CQ ham radio」創刊号に掲載された西巻さんの論文の一部。