8月15日の敗戦後、戦前のハム達を中心にしたアマチュア無線再開の運動は予想外に早く始まった。JARLは昭和21年8月11日に再結成され、会長に八木アンテナの開発者の一人である八木秀次さんを選出、会員の募集も再開した。9月にはJARLの機関紙として「CQ ham radio」を発刊。JARLは戦前のハム達を正員とし、新しい会員は準員として扱った。

新潟では西丸さんを中心として「新潟クラブ」が昭和23年(1948年)1月11日に発足した。第1回のミーティングには中村義雄(J6DG/J2NZ)西丸政吉(J6DK/J2MN)佐藤倉次(J6FG)伊勢明好(J2IP)さんの4人の戦前ハムと阿部功、貝谷吉一さんの合計6人が出席した。一方、JARLは、この年の11月にSWL(短波受信者)ナンバーの割り当てを開始している。

SWLの拡大は、アマチュア無線再開の見通しがはっきりしないことへの対応策であるとともに短波の受信技術の習得、QSLカードの収集により再開されるアマチュア無線のトレーニングをするのが目的であった。SWLナンバーは全国を10分割したエリアコードと同じ数字を使用した。新潟ではJAPAN 0-2を西丸さん、同0-3を阿部さんがもらっている。0-1は欠番だった。翌24年からはSWLナンバー取得者が増え、26年8月に小林さんが取得した時に与えられたのは0-60となっていた。

昭和30年、小林さんの免許状書換発給。旧免許状は返却しなければならなかった。運用は「常時」であったが、「放送受信に支障を与えないよう」との注意書きがあった。

小林さんは終戦の翌年に新潟県立新潟工業工業化学科に入学するが、1年後の4月には学制改革により新潟県立新潟工業併設中学に編入することになった。その中学では化学室にあったゲルマニュウム鉱石を割り、鉱石ラジオを初めて作った。昭和24年4月には新潟県立新潟工業高校電気科に進学、電気部に所属した。アルバイトで貯めたお金でジャンク部品を買い、並4(O-V-1)受信機を完成させ、家に「我が家のラジオ」が置かれることになり、近所の人達も聞きに来ていた。

小林さんはSWLナンバ-0-60を取得した。短波を受信する小林さん。(昭和26年9月)

昭和26年、高校3年の修学旅行は京都、奈良。帰りは東京経由となり、自由行動の時間に東京に転校した友人と待ち合わせをし、秋葉原で中古の真空管数本を購入。家族への土産を買うお金はなくなったが「真空管は自分にとっては何よりもの土産だった」と小林さんは思い出している。27年3月に卒業、通産省工業技術院電気試験所新潟支所に就職。自作のラジオは高1(高周波増幅1段)ラジオ、スーパーヘテロダインラジオへとレベルアップしていく。この頃、すでに小林さんはアマチュア無線の虜になっていた。

昭和27年8月第2級無線技術士の国家試験を新潟市で受験。9月に免許証の交付を受ける。11月には第2級アマチュア無線技士を受験。通信術に自信が持てず2級の受験となった。12月15日合格。翌28年1月10日免許証が交付され、3月5日JA1WDで開局。7MHz帯、空中線電力10W、送信機は水晶発振、終段管はFZ-064A。当時はUY-807が主流であったが「高価で購入できず、ジャンク品の真空管を見つけて規格を調べて格安で購入した。開局後にこの真空管についての問い合わせが多くあり、フィラメント電圧が12.6Vであることや自己発振を起こしやすい恐れがあるので要注意の説明をしました」と当時を振り返っている。

小林さんのJA1WDは、コールサイン変更でJA0ADとなる。外国を見習ってQSLカードを小型化するがJARLから「転送不能」と言われた。

この頃の電波法では開局までの手続きは面倒であった。開局申請書作成のわずらわしさはよく語られているがその後の流れも複雑であった。小林さんは1月31日に予備免許を交付され、工事(局の設備)落成期限を3月1日に決める。2月5日には試験電波発射届け提出、11日には同届けが受理され、20日に無線局工事落成届、無線従事者選任届を提出。ところが3月3日に信越電波監理局長名で「注意書」をもらうことになる。

2月21日にJA3BR(安藤倬二)さんとの交信が「試験電波発射方法不良」に当たるということであった。落成検査が終了し、免許状がないうちは試験電波の発射は良いが相手との交信は禁止されている。3月5日その始末書を提出するが、同じ日に落成検査が行われ合格。15日に免許状が届き、16日に無線局運用開始を提出、この日の21時33分、JA6AN(島田金二)さんと初交信する。信越での戦後の免許第1号は小林さんより約半年早かった阿部功(JA0AA)さんである。