阿部さんは、昭和21年8月、会費半年分を支払ってJARLの会員となる。阿部さんがJAPAN、0-3のSWLナンバーを取得したのは昭和23年11月21日であったが「SWLナンバーをもらったクラブ員はコールサインをもらったかのように感激した」と、当時の様子を語っている。初めてのQSLカードは中国・上海市のC1CH局であり「海外からの初めてのカードに大喜びした」ことも思い出している。

阿部さんのSWLナンバー。簡単なものだった。

昭和26年6月、第1回のアマチュア無線技士の試験が行なわれたが、新潟県内からは1人も受験しなかった。受験するためには東京か長野に行く必要があり、当時は夜行で行くか1泊しなければならないことも原因だった。阿部さんが1アマを受験したのは10月であり、この時は新潟市で行なわれた。受験番号は1番で、たった一人の受験生であった。

CW(電信)の受信はSWLを続けていたので自信があったものの、送信技術に不安をもっていた阿部さんは受験2カ月前から電報局のプロに特訓を受けていた。受験者が一人だけだったためか試験はのんびりしており「しばらく練習をした後に、そろそろ本番にしますか、という具合だった」という。無線技術士の免許を持っていた阿部さんは1次では通信術、2次では法規のみを受験し合格した。

阿部さんのSWLカード。JARLの受信カードコンクールで2位となる。

試験に合格したものの開局許可の気ざしはなかった。全国には、阿部さんと同じような状況に置かれている人は何人かいた。皆それぞれが電波監理局ではなくGHQ(進駐軍)に対して嘆願書を出すなどの運動を繰り広げていた。その中心になったのが、東京の庄野久男(JA1AA)さんであった。敗戦国である当時の日本は、まだ独立を認められておらず、政治は二層構造ともいうべきものであった。したがって、電波行政もGHQが握っていた。

昭和27年の2月、阿部さんのもとに庄野さんから「電波監理総局が申請書を受け付けた」との便りが届いた。うれしい便りであり、急いで申請書を書き上げた。一般無線局並のまことに面倒な書類だった。提出したのは3月24日であり、終段管にUY-807を使用した出力30Wの送信機であったが、10W以上は周測計が必要と聞き、最終的には10Wで申請した。

4月になると、連合軍最高指令官であるリッジウェイ中将から文書が届く。内容は「アマチュア無線禁止の覚書を解除したから日本政府と交渉されたし」というものであった。団体であるJARLに対してだけではなく、陳情していた個人に対してまでも最高の立場の役職名で文書を送ってきたことに阿部さんは驚く。同時に「民主主義とはこんなものか、と知った」という。

阿部さんは新潟クラブの緊急ミーティングを自宅で開いた。皆、興奮していた。阿部さんはその場で言った。「最初から大出力を狙わずまず10Wで申請すること。送信機用の部品は新潟では入手困難なため、西丸さんに上京のおりにかき集めてきてもらう」と。久しぶりに明るいミーティングとなり、参加者の顔に受験して免許を取るぞという意欲が溢れていた。4月6日のことだった。

戦後初の予備免許は7月29日に、阿部さんを含め全国30名に下りた。阿部さんのコールサインはJA1WA。信越管内では1人だけだった。8月26日に落成検査。小林(AD)さんなど7名のクラブ員が応援に駆けつけてくれた。電監のヘテロダイン周測計は電源を入れて30分しないと安定せず、また、送信機の水晶発振子も暖まるまで変動があるため、それを待って、結局、検査は午前中から夕方までかかった。

昭和28年5月の新潟クラブのニュースには、当時合格したクラブ員の名前が掲載されている。数えてみると21名となる。免許再開約1年でこれほどのハムが誕生した地方都市は珍しいといえる。それほどに新潟クラブの果たした役割は大きかったのだろう。以下、名前を羅列しておく。

[1アマ]:阿部(後、以下同様JA0AA)、西丸(JA0CA/JA1NCA)、
      貝谷(JH0DDL)

[2アマ]:新島(JA0AB)、小林(AD)、太田(AE)、難波(AG)、
      稲毛(AK)、高島(AL)、遠藤(AN)、福島(AP)、志田(AR)、
      八木(AV)、吉成(AW)、中村(BA)、鳥越(BF)、新保(BP)、
      浅妻(EN)、小林(EO)、小川(KR)、原(SZU)

阿部さんと現在のシャック。