「長野アマチュアラヂオクラブ」は、当初、長野県全地域を対象としていたが、県内の各地区にクラブが増えるのにともない次第に長野市在住者を対象としたクラブへと変わっていった。県内のクラブの一つである「松本ハムクラブ」が松本市に誕生したのは昭和28年であり、初代会長には大池尚(JA0BH)さんが就任した。

松本市でも戦前、戦後ともに送受信機用の電子部品は地元では手に入れることができず、地元の”スクラップ屋”と呼ばれていた業者のクズの中から運が良ければ探し出すことができた。しかし、どうしても必要なものは東京の秋葉原まで行くか、東京に行く人に頼むしかなかった。その内に、松本市内に小林ラジオ商会が誕生し、アマチュア無線用の部品類を扱うようになった。

松本市周辺には、古いラジオを所有している家庭が多い。松本電子部品商会の店頭には、さまざまな戦後すぐのラジオが積まれている。

そこの店主夫人の小林きみ(JA0EC)さんは、明治42年(1909年)生まれで、戦後しばらくしてハムとなり「松本ハムクラブ」の活動を通じて、若い人の面倒をみた。信越のYL(女性ハム)第1号であり、後に全国YL局の組織であるJLRS(JapanLadies radio Society)の初代会長になった人である。JLRSは昭和32年(1957年)に設立され、アワードの発行、パーティコンテスト、外国のYL局との交流活動などをしており、小林きみさんは34年までの2年間その会長職にあった。

JLRSの第2回総会は、昭和34年に開催された。後列、左が小林きみさん。

戦後の長野県のハムの多くは、長野と松本の両ハムクラブから巣立っていったと言っても良いが、松本には「私は運用より、機器をいじるのが好きだった」というやや異色のハムがいる。松本市の北にある四賀村の橋本和加一(JA0MJ)さんである。地主でもあり豊かだった橋本さんの家には太平洋戦争前から電池式のラジオがあった。昭和14、5年の頃、橋本少年はそのラジオを改造したりしていたが、ある時、一台のラジオが超再生状態になると、離れた所のラジオにその信号が伝送されることを知った。

橋本さんは自然に無線の原理を知ったともいえるが、その後は超再生を利用してモールス信号を二台のラジオの間で送る楽しみを見つけた。「当然、モールス信号は自己流でした」という。無線通信に興味は持ったものの、別にハムになろうという考えは当時はなかったという。戦後、橋本さんはラジオ作りに精を出す。「4、5年の間は毎日ラジオを作り、周辺の方たちに販売していた。何百台ものラジオを作りました」という。

その後、橋本さんはGHQの米軍情報部と行動をともにする仕事につく。昭和25年から32年までの間、東京や新潟にも勤務した。昭和25年に「朝鮮戦争」が勃発し、日本は再び騒然とし始めていた。アマチュア無線の免許が再開されていなかった当時でも、GHQ(進駐軍)の駐留ハムはMARS(軍用補助局)の名のもとに交信しており、日本人のハム志望者を悔しがらせた。

MARSのメンバーが使用したプリフィックスは、当初は「J」であり、次いで「JA」となった。さらに、昭和27年に日本人にアマチュア無線免許が与えられる1カ月前にこれら駐留ハムのプリフィクスは「KA」局に変わる。それ以後、この「KA局」問題は尾を引くことになる。郵政省は「KA局」をアマチュア無線として認めていない。このため、その後も「KA局」との交信は禁止された。

橋本さんは仕事柄、これらの「JA」や「KA」局と親しくなり「いろいろ教えてもらいました」という。日本ではアマチュア局として認められていないが、国際的にはれっきとアマチュア局であり、橋本さんはハムのあり方を学ぶとともにハムになる意欲をかき立てられたという。

家を継がなければならなくなった橋本さんは、昭和32年に四賀村に戻り、すぐに予備免許を取得し33年春に開局する。しかし、無線の運用をするよりも通信機をいじるのが好きだった。米軍使用の通信機も集めた。ハムがあこがれたコリンズの送、受信機も買い求めた。今、橋本さんのシャックは旧日本軍、米軍の通信機や自作の機器で埋まっている。

余談ではあるが、四賀村は村の再生を目的にクライン・ガーデン(市民農園)事業に乗り出している。村、JA(農協)商工会、金融機関による第3セクター方式の「四賀むらづくり株式会社」が設立され、つい最近まで橋本さんは取締役支配人を務めてきた。同じように「村おこし」に取り組んでいる地域からは講演の要請も多い、講師として、あるいはパネラーとして、橋本さんは忙しい。

橋本さんとシャック。旧日本軍と米軍の通信機などに囲まれている。