28年になると太田友治さんが3月に1WE、難波昭七さんが5月に1WG、福島隆義さんが6月に1WPを開局している。後に、新潟のハムの発展に貢献することになる吉成正さんは7月末に1WWで開局した。長野県でも同様に予想外にアマチュア無線局増加のテンポは速かった。このため、WAから始まったサフィックスは29年7月頃には1ZZまで達しそうな勢いであり、その後が心配された。

郵政省は、アマチュア無線再開を前に免許方針を決めたが、いくつかの条件がJARLが望んでいるものと異なった。その一つがプリフィックスであった。全国には10監理局があり、JA1からJA10(あるいはJA0)のエリア分けが最適と見られていたが、実際には関東と信越がJA1、東海と北陸がJA2のエリアとされた。

この頃、毎日のように逓信省に通い、政府と折衝していた戦前のハムがいた。庄野久男(JA1AA)さんである。庄野さんはJA1~JA0の10エリアを要望していたが、「1と0は使ったことがない。0はタイプでは打てない」と言われたという。庄野さんはタイプで0の打ち方まで教授したものの「27年7月29日、30局に予備免許が交付された時、意向が反映されないことを知りがっかりした」と、後年、語っている。

阿部さんは、JA0AAとなった。1998年、全国各エリアのAAハムが黒部に集まった。

関東にはJA1AAからJA1VZまで、信越にはJA1WAからJA1ZZ、同様に東海にはJA2AAからJA2VZ、北陸にはJA2WAからJA2ZZが割り当てられた。28年(1953年)、JARLは全国のエリア単位に支部の設立を決め、信越では新潟クラブと長野クラブが意見調整を行ない、信越支部設立届けをJARLに提出、7月8日の理事会で承認された。

1カ月後の8月8日、第1回の信越支部大会が妙高池の平の逓信保養所で開催され、初めて両県のハム達が顔を合わせた。初代支部長には阿部功さん、副支部長には太田友冶(JA1WE)さん、岡田久太郎(JA1WO)さんが、選ばれ、小林さんは庶務担当となった。また、西丸(JA1YA)さんは本部理事に選出された。

第1回信越支部大会が開かれ、両県のハムが集まった。前列左から吉成さん、小林さん、5人目が阿部さん、6人目が岡田さん、後列左から4人目が清水さん、5人目が西村さん。信越エリアにとっては貴重な写真である。

この大会後の信越電波監理局長との会合では、懸案となっている呼出符号の変更を、バンド開放とともに要望した。昭和29年、実際にサフィックスが満杯となる恐れが出てきたため、信越支部は北陸支部とともに、電波監理局長宛てに呼出符号変更請願書を提出。その中で、関東地区、東海地区でも同様にやがて不足することになると強調した。

この年の12月、要望していたバンド開放と呼出符号の変更が実施されることになり、信越ではJA0が実現した。希望者には変更せずに旧コールサインを使用することが認められることになっていたが、全員が変更を申請した。もっとも、この変更によって思いがけないことが起こった。「JA0という新しいプリフィックスの出現を、海外では太平洋の硫黄島からの電波と誤解し、猛烈なパイル(呼出ラッシュ)状態となり、アメリカからの大パイルで簡単にWASを完成してしまった」と、阿部さんはいう。

小林さんも、12月27日にJA1WDからJA0ADに変更。30年(1955年)7月15日には、50Wへの増力と3.5MHz帯の追加申請を行なう。31年5月12日、第2回信越地方非常無線コンテストに優勝し、翌年6月1日の「電波の日」記念式典で表彰される。

昭和30年2月、移動局が許可された。従来はイベント会場など一時的な外部での運用でも、その都度申請書を提出し、新設検査を受けていた。移動局許可を受けて、多くのハムがポータブル機の自作に取り組んだ。信越では8月6日に妙高で開催された「第3回信越支部大会に」阿部さん、矢沢章一(JA0AJ)さん、中村勇(JA0BA)さんの3人が自作機を持ち込み、新設検査に合格した。

阿部さんの自作機は3.5/7MHzの5WでAC電源であった。やや遅れたが吉成さんも挑戦していた。電池電源1.5W機を完成させ、9月7日に検査を受けた。大阪の島伊三冶(JA3AA)さんを含め、全国各地でポータブル自作機が登場、アマチュア無線に新しい分野が広がっていった。

阿部さんが自作したAC電源ポータブル機。