小林さんは開局後、毎日のようにマイクを握り、通信に関係あるものには貪欲に興味をもった。昭和32年1月、新潟飛行場敷地内に米軍のFEN(極東放送網)新潟局が開局し、同級生が勤務することになると、その関係で小林さんは早速見学にいく。「放送機は軍用の送信機BC-610Eを使っており、軍用送信機で放送を実施していることに感心した」と言う。

国内通信に飽き足らなくなった小林さんは、電信に挑戦し、昭和32年に1級アマチュア無線技士の試験を受ける。10月、試験場にいくと受験生は3名。全員が顔見知りであったため本音の話しとなり「あなたは最初だから無理」といわれる。小林さんは、全員が和文で失敗していたのを聞いていたため、予め業務通信を傍受して独学で練習していたものの2回の受験とも和文で失敗する。

その後、和文の受信を毎日心がけるとともに、英文はアマチュア無線で練習し、3回目でやっと合格。当時はほとんどの受験生が3回以上受験しての合格であった。翌33年7月、空中線電力を増力するとともに、14MHz帯、21MHz帯を追加申請する。米国製通信機TCS-12を使用し、国産の真空管を使うが無理がかかるため、RCAの真空管に代えたりした。

昭和40年代の新潟クラブのミーティング

西丸さんも、自営業を辞めてFEN新潟局に勤務することになる。その結果、西丸さんのつてで米軍無線機やジャンク品が手に入るようになる。33年(1958年)、新潟飛行場に軍用補助局KA(KA2CY)が開局する。14MHzで強力に入感し、小林さんなど日本のJA0局には聞こえない局とも交信している。

新潟飛行場の米軍基地内のKA2CY局訪問。左からKA2CY、阿部さん、小林さん、西丸さん。昭和30年5月1日だった。

小林さんは、どんな設備か知りたくてたまらなくなった。幸い、阿部さんと親しくなり、招待を受けることになる。阿部さん、西丸さんの3人で訪問、送信機はBC-610E、受信機はBC-779B。アンテナは30m高のタブレット2本、同軸給電で指向性切替方式。「あまりにも自作の我々の設備と差がありすぎることに唖然とした」と小林さんは当時を思い出していう。 この訪問を契機に小林さんは米国製軍用機にあこがれる。しばらくすると、軍用機の大放出があり、小林さんはBC-610Eを購入する。しかし「資金面で高級品のBC-779BやSP-600JXには手が出せなかった。お金持ちがうらやましかった」と今でも悔しそうな表情である。

小林さんは28年にJARL信越支部の庶務担当となって以後、評議員、新潟県監査指導員、同県監査指導委員長、信越地方監査長を経て、昭和57年(1982年)に信越地方本部長となった。信越のアマチュア無線界は、新潟クラブや長野クラブなど地方クラブの動向を記した資料は多いものの、信越全体の組織体である昭和28年以降のJARL信越支部、47年(1972年)以降の信越地方本部の歴史を記した資料は少ない。

しかも、支部長や本部長の任期が全国の他のエリアと比較して短く、さらに新潟、長野の両県から交互に選出されており"信越"として一体となっての流れが分断されてしまっているようにさえ思えてくる。それだけに「信越のハム達」をくくる作業には苦労がともなっている。

阿部さんは「戦前は新潟がJ6で東北管轄、後にJ2となり関東管轄、長野はJ2で東海管轄と、それぞれ異なっていた。戦後、再開されてからは2県で1エリアが構成されている地区は他になく、しかも両県は気候、風土も異なります。さらに、かつては新潟、長野を結ぶ直通の特急、急行もなく、結びつきが薄いのはやむを得ない面もあった」という。

しかし、と阿部さんは「そうでない面もあります」と強調する。「信越地方のOSOコンテスト、VHFコンテスト、ALLJA0コンテストなどは古くから実施されており、JA0-DXGANGも33年も続いています」と、両県協力しての行事も多いという。

再び、小林さんのハム活動に戻る。昭和32年にはIGY(国際地球観測年)と、ソ連の人類初の人口衛星スプートニクの信号受信に協力。IGYでは新潟大学の是沢教授の話しを聞き、打合せを行なった。この時には「期限付ながら7100~7150KHzの使用が許可された」と当時を語る。一方、スプートニクでは20MHzと40MHzの信号を小林さんと、吉成さんが受信することに成功している。この2つのイベントについては、別の連載である原昌三・JARL会長の「私のアマチュア無線人生」に詳しく触れている。

新潟放送局の職場での小林さん