新潟市は、昭和30年の「新潟大火」と39年の「新潟地震」の悲劇に見まわれている。この2つの出来事でのアマチュア無線の果たした役割については後に触れたい。昭和33年5月、電波法が改正されて、電信級・電話級アマチュア無線技士の資格が誕生し、同時に従事者免許も終身免許となり、免許手続も検査も簡略化された。

また、この頃からアマチュア無線機器がメーカーから発売され始め、自作をする必要がなくなりつつあった。このような制度の規制緩和や手軽に機器が求められるようになったことを背景に、アマチュア無線人気が沸騰した。新潟クラブはこの年の5月の3~5日に、市内の大和デパート屋上を借り「アマチュア無線公開実験」を行なった。中高生が予想以上に集まり、大盛況であった。

翌34年(1959年)12月になると社団局(クラブ局)が制度化され、昭和35年3月に東京の逓信博物館にわが国最初のクラブ局が開設された。新潟クラブも小林さんを中心に申請書を提出し、8月にJA0YAAのコールサインをもらい、日本赤十字社新潟県支部に開設する。

小林さんもサラリーマンである。昭和46年(1971年)、新潟放送(前ラジオ新潟)の長岡放送局に転勤することになる。3月末、ハム仲間が集まり送別会を開いてくれたが、その席に、西ドイツのハンス・グラフ(DL8SB、現DF2MC)さんが現れた。当時はまだハムになっていなかった恩田和利(JA0SLC)さんがドイツ留学中に知り合った方で、ハム王国の日本を訪ねたい、と半年の休暇を取って新潟に滞在していた。

恩田さんは新潟工業高校土木科から日大に進み、卒業後にドイツに留学し、そこでハンスさんと知り合った。ハムのことを知らない恩田さんは帰国後、母校の電気科を訪問し、JA0AWの吉成さんを紹介された。当時、吉成さんは新潟クラブの会長をしており、新潟のハム達に引き合わせたのだった。

昭和46年度の信越支部大会。中央はハンスさん。左が恩田さん、右が吉成さん。

送別会は同時にハンスさんの歓迎会も兼ねたものとなった。その後、ハンスさんは支部大会に泊りがけで参加し、雑魚寝も体験、諏訪市で開かれたJARL総会にも出席した。非常に気さくな方で、新潟のハム仲間にも人気となった。当時、海外との相互運用が課題となっており、昭和45年11月には米国日本大使のマイヤーさんの所属するクラブ局JH1YDRに運用が認められたばかりであった。

同じく信越支部大会。原昌三JARL会長も出席し、ハンスさんと記念写真を撮った。

小林さんは、ドイツとの間にも相互運用を認めてもらう好機と見て、JARL事務局、原会長と連絡を取りながら活動を開始した。まず、ハンスさんとともに信越電波監理局に相談に行き、その後、JARLの指示で陳情書と申請書を提出した。しばらくすると、小林さんは信越電波監理局から呼び出される。

急ぎ伺うと、担当官は「本省とJARL本部間の取扱事項をどうゆう理由でJARL信越支部が進めるのか。その説明をして欲しい」というお叱りであった。小林さんは、改めて回答することにして、考えこんでいると、原会長より出張先の台湾からの絵はがきが届き「ドイツとの話しは本省でも話してある。どんどん話しを進めて欲しい」と書かれていた。

後日、信越電波監理局に経過を報告しに伺うと、担当官は「余計なことをしてくれて迷惑な話しだ」という。原会長のはがきを見せると急に態度が変わり、始末書提出を考えていた小林さんは何事もなく事態を収拾することができた。相互運用はハンスさんの滞在中には実現しなかったものの、この時の運動が米国に次いで、昭和61年(1986年)のドイツとの相互運用協定締結に結びついた。

長岡に転居した小林さんは放送局敷地内の社宅に入居し、アマチュア局設置場所変更届を提出。7月に100W変更検査に合格する。検査官からは「長岡放送局より出力は大きいですね」といわれる。

長岡でも、長岡クラブからの要請を受けて、アマチュア無線の「養成課程講習会」の講師を務めていた小林さんに、電信を教えて欲しいという話しが持ちこまれる。その後は社宅の事務室を借りて、受験月の3カ月前から教えることにし、毎日6時から2時間の教授を続けたという。

冬場は長岡の豪雪の中を生徒達はやってきて、かじかんだ手を石油ストーブで温め、夏は扇風機で暑さをしのぎながらの練習だった。受験場と同じ雰囲気を作り、時には合格者の体験談を聞かせたりした。結局、社宅が取り壊され、送信所のみとなった昭和52年(1977年)4月まで続けられ、合格者は40数名に達したという。