昭和46年(1971年)1月18日、現在ではまず不可能であろう全国のハムの結束した行動が7時間にわたって続けられた。前年の45年に問題となった7MHz帯での中国さらにソ連の妨害電波(ジャミング)調査のために、午後10時から翌朝5時まで電波を止め、受信だけの体制に入ることになったが、これに全ハムが協力したのである。

昭和46年1月18日~19日には、7MHz帯侵入電波の調査が行われた。写真はその時の模様。---JARL発行アマチュア無線のあゆみより

小林さんはこのことに感激し、以後、侵入電波の監視に関心を持つ。約20年後に話は飛ぶが、平成2年(1990年)にIARU(国際アマチュア無線連合)は、世界各国にモニタリングサービス(特別監視活動)を提案し、JARLも募集を行なった。小林さんはそれに応募し、3月4日から翌年の2月24日までの約1年間、24時間体制、7バンドを2時間指定周波数で監視するボランティアを始めた。

「アマチュアバンド以外の周波数監視もあり、当時のハム専用機では受信できずオールウェーブ受信機が必要。また、朝4時からの受信はつらかった」という。平成12年(2000年)8月、第11回IARU REG―Ⅲ(第3地域)シドニー総会で、侵入電波監視業務報告に対して、5カ国が表彰された。その中に日本も含まれており、小林さんが日本を代表して表彰状を受け取った。「長年の苦労が報われて名誉なことでした」と当時を語る。

再び、昭和50年代に戻る。米国でレピーターが開局されたことに影響を受けて、わが国でもレピーター(中継局)を設置する研究が始まった。JARLは、藤室衛(JA1FC)さんを委員長とするレピーター研究委員会を発足させ、56年(1981年)に第1回の委員会を開き動き出していた。そのレピーターの設置を加速したのは、実はアマチュア無線衛星問題であった。

第1号のレピーターはJARL本部近くの屋上に設けられた。その開局式の模様-JARL発行アマチュア無線のあゆみ(続)より

その頃、米国、ソ連はアマチュア無線衛星を打ち上げており、わが国もいつまでも海外諸国の衛星のお世話になってばかりおられなかった。海外からも日本のアマチュア無線に対して批判が強まっており、JARLは同じく昭和56年に、森本重武(JA1NET)さんを委員長にした「アマチュア衛星打ち上げ準備委員会」を設置し、政府に働きかけていた。

アマチュア無線衛星打ち上げの問題には、衛星製作、打ち上げの経費とともに、レピータ―を搭載する衛星は許可されないということがあった。レピーターそのものが許可されていない状況下では当然であった。そこで、JARLは改めてレピーター設置許可を求める運動を再開した。以上のことは、別の連載である原(JA1AN)JARL会長の「私のアマチュア無線人生」に詳しく書かれている。

その結果、全国各地にレピーターが設けられることになり、直轄局(JARL設置・監理する)団体局(団体が経費を負担し設備をJARLに無償貸与することを条件にJARLが開設する)の2種のレピーターが続々と開設されていった。信越では、長岡近郊の小木ノ城山頂にあった農協のVHF局が廃局になるので利用しないかという願ってもない話が飛びこんできた。

小林さんは、長岡クラブと相談し譲り受けることにする一方で、海外のレピーターの事情を知るためにQST(米国アマチュア無線連盟の雑誌)をむさぼり読んだ。現地を調査しようにも米国は遠すぎる。代わりに香港のレピーター局を訪問し、設備や運営運用方法を調査した。レピーター局(JR0WA)は許可されたものの「初めてのことであり、反対者も多く、また、電話級操作範囲の10Wが弊害となり、米国のようなハイパワー実現しなかった」と小林さんは当時を振り返っている。