[フェーン現象/強風下の火災] 

昭和30年、この年のラジオの登録台数は全国で1250万台、実質経済成長率は8.8%。日本の高度成長が始まっていた。NHKラジオではクイズ番組「私の秘密」がスタート、歌手・島倉千代子が「この世の花」でデビューしたのがこの年であった。秋、10月1日、台風22号が佐渡沖を抜けたばかりの新潟地区にはフェーン現象が起き、異常な乾燥状態となり、さらに瞬間風速が30mを越す強風に見舞われていた。

午前2時50分頃、新潟市内医学町通の県教育庁2階付近から出火した火災で、繁華街の大半が焼き尽くされた。米軍新潟航空基地、陸上自衛隊新発田駐屯地から消火応援に駆けつけたものの、鎮火したのは8時間後の午前10時50分頃だった。焼失面積は約25万7400平米、1193世帯、5901名が被災した。

この火災で新潟県のアマチュア無線の中心的存在であり、ハム達の面倒を見ていた西丸さんの店舗も焼けてしまった。トランスの巻き線機、リグ、ハム用部品、関係書類、QSLカードなども焼失した。一方、阿部さんは勤務先の新潟放送本社スタジオが全焼したため、作ったばかりのポータブル送受信機を焼失してしまった。昼休みに、屋上でQSOするため持ちこんでいたのである。

火災の翌日(日曜日)、吉成さんは自作のポータブル機をもって現場に駆けつける。3.5MHzで呼びかけるが応答はない。道路は焼け残りの残がいでふさがれていた。「ようやく新潟日報社裏の西丸氏の店にたどり着く。店は丸焼け、巻き線機2台、私の預けた米国製の水晶10個も焼けてしまった」と「新潟アマチュア無線70年のあゆみ」に記している。この後、吉成さんは非常通信協議会から「被災地移動運用を報告しておけば表彰したのに」といわれたという。

吉成さんは、大正15年に京都市伏見区で生まれ、東京で旧制中学を卒業した後、青森県の旧制弘前高等学校を卒業し、東京在住時代に新潟に強制疎開となり、そのまま新潟に居を構えて新潟工業高校の教師となった。新潟の戦前のハムで、この連載で功績を紹介した小田壮六さんは吉成さんの奥さんの叔父にあたる。

新潟地震では多くの建物が倒壊した。写真は倒れたり傾いたりした県営アパート。

[活躍したハム達] 

この年の12月1日現在、新潟県下のアマチュア無線局は56局。新潟市内・周辺に何局あったのか定かではないが、災害時の非常通信をするほどの組織力はなかった。これに対して、9年後に起こった新潟地震ではハムは目覚しい活躍をした。新潟地震については、やはり吉成さんが「新潟アマチュア無線70年のあゆみ」に報告しており、また「CQham radio」の8月号(1964年)にまとめられている。

JARL新潟地震で新潟クラブは日赤新潟支部に中央統制局を置く非常通信体制を作った。写真は通信中のクラブ員。

地震発生は6月16日(火曜日)13時2分。吉成さんは勤務先の新潟工業高校の校舎2階、電気科2組の教室で生徒と昼休みの雑談をしていた。「最初は小さな揺れであり、治まるのを待っていたが、さらに大きな揺れとなったため、グランドに逃げろ」と生徒達に指示。足下のコンクリートが割れ、爆発音が聞こえてくる。東を見ると真っ黒な煙が上がっている。「昭和石油のタンクが爆発したのに違いない」と直感したという。

学校はその週を休校と決め、状況が落ち着き次第、帰宅させることにし、吉成さんは遠方通学のため帰れそうもない生徒1人を連れて帰宅。無線機を確認するが机やラックから落ちている。しかし、幸いアンテナや接続ケーブルが緩衝材の役割を果たして被害はなさそう。「停電のため電池式の移動無線機で呼び出したが応答はなかった」という。

短波から放送波に切り替えて受信、情報を集めていると「万代橋が歩行者のみ通行可能」と報じている。連れて来た生徒は「歩いて帰る」というので、吉成さんは洪水地帯を避けながら単車で送る。その足で日赤県支部に向うが、支部にはJA0RDの佐野さん、JA0QLの金井さんがトランシーバーを持って駆けつけていた。「新潟周辺は津波と、地下水噴出による洪水、停電、断水、電話通信不通、道路遮断で戦場のような状況」と吉成さんは記している。

[苦労しての送信開始] 

日赤県支部には、クラブ局が認められた翌年である昭和35年(1960年)8月に、小林さんを中心に新潟クラブがJA0YAA局を設置していた。吉成さんによるとYAA局の前身は、昭和33年(1958年)2月に西丸さんが自費で設けたJA0JA局であるという。地震時、発動発電機のうち使用できるのは1台のみであり、まず新潟大学理学部のJA0YAKがそれを利用して3.5MHz、7MHzで県外との非常通信を始めた。吉成さんも日赤に向う前にこのYAKの電波を受信している。

日赤県支部に集まった仲間は、新潟放送に「新潟市内及び周辺のハムは日赤に集まって欲しい」との放送を依頼。その一方で、吉成さん、白倉利夫(JA0CP)さん指揮の体制を整えるとともに故障している発電機の修理に取りかかるが、16日の深夜になってあきらめる。10時間以上も食事なしで動いていた吉成さんは「白倉さんも私も、尻もちをついたら立てなくなっていた」という。翌17日には日赤向い側の街灯に通電されたため、キャプタイヤコードを道路に這わせて日赤前庭の非常通信用テントに給電することにした。

日赤新潟支部長からJARL新潟支部への非常無線協力依頼書。