[長時間活動に疲労困ぱい] 

非常通信の本部(中央統制局)体制も整ったが、同時に被災地各所には移動局が増え18日には、県庁、市役所の各対策本部、健康保険病院、孤立した山の下小学校など9局が運用を開始している。吉成さんはこの日から、毎朝8時に各移動局の実働参加者の点呼を取り、人員数、それぞれの健康状態、機器の動作状況、必要機材、必要食料数などの報告を受けて、朝一番の救急車に食料・機材等を託して送り届けるようにした。

19日になると、修理を依頼していた発電機が届き、新潟飛行場わきに置かれた日赤センター医療班に協力できるように発電機とともに5名を派遣した。この日には各地から支援のハムが集まり始めた。朝、東京から西丸(JA1NCA)さんが心配して駆けつけてくれ、吉成さんも記録写真を撮る余裕ができた。西丸さんはこの連載に何度も登場した戦前からの新潟のハムであり、戦後の新潟のアマチュア無線を育て上げた人であった。昭和33年(1958年)に勤務していたFEN新潟局廃止にともない東京局へと転勤していた。

西丸さんは昭和30年(1955年)の新潟大火の際には経営していた店舗を全焼しており、その時のハム仲間の暖かい支援を思い出して、真っ先に駆けつけてくれたのである。この頃、小林さんや阿部さんは新潟放送の社員として報道業務に多忙を極めていた。それでも何かにつけて側面からの協力をしている。支援要員は増加し、日赤支部に7、8名、各通信所に3、4名の人員体制が確立した。

阿部さんや小林さんは新潟放送の報道教務に多忙な中で、側面的にアマチュア無線非常通信を支援した。写真は新潟放送カメラマンによる実況の模様。

震災から3日たったこの19日、全国のハムによる非常通信に対する妨害は相当ひどかった。新潟放送、NHKに依頼し、全国のハムに非常通信周波数である3525KHzでの発信をしないよう呼びかけたものの妨害はなくならなかった。当時はV/Uの送受信機が少なく、市内の避難所との連絡には3.5MHzを使わざるをえなかったのである。

NHK、新潟放送に依頼した「アマチュア無線妨害停止協力」の文面。

20日は雨、浸水も多く新たな病人が増加。深夜より救急車の要請が多くなり、激災地の山の下・藤見中学校に開局、実働局は10局となり、一方、放送による呼びかけが効果を発揮して妨害が減少し始めた。日赤建屋の商用電源が復旧し、また、雨が激しくなってきたため、中央統制局をテントから無線室に移動。しかし、連続運用のために協力者の疲労も激しく、通信機の故障も出始め、無線機2台から煙が上がった。日赤の災害対策本部からは「後、4~10日は続けて欲しい」との要請を受けて、長期戦を覚悟することになり、長岡クラブに人員、無線機、資金のカンパを依頼する。

21日、支援のために訪ねてくる人は多いが、アマチュア無線の資格もない人もおり、交代要員不足のため各局ともに苦しんでいる。翌日22日(月)からは高校、中学の授業が再開されることになり、教職にある吉成さんは公用欠席取扱要請に駆け回る必要もあった。日赤医療班の仕事はほぼ終わりかけているが、新潟市の対策本部からは「もう4日ぐらい、消防か自衛隊の通信ができるまで継続を」と依頼される。

午後になると、周辺から新たな支援者がやって来たり、長岡クラブ、三条クラブなどからも応援者が到着、力強い援軍を得て、長期体制を整えることができた。この日、阿部さんは市役所との間に21MHzを開設するため翌22日の朝2時まで動き回った。

新潟-長岡間には50MHzでの非常通信網が設けられた。

22日、市の対策本部から「自衛隊の通信ができるようになった」と連絡があったが、その後「自衛隊は通信業務を午後5時で打ち切る。夜はハム通信でやって欲しい」といわれ、ハム達は憤慨。対策本部に官公署の通信活動を2度にわたって要請。「対策本部は車も伝令もあり、やる気があればハムが撤退しても切り抜けられる」との結論から16時に非常通信を解くことを決める。

[大きな貢献をした非常通信] 

非常通信を解くことについては大学生から「まだ早い」との反論もあった。しかし、中高生を抱えている日赤支部の局については、教育委員会からの非公式な要請もあって、打ち切りを決定した。ただし、山の下地域のみは、地元の要請もあり23日の8時まで延長対応した。

1週間にわたる活動で扱った通信は、17日=360通、18日=1344通、19日=2968通、20日=3360通、21日=1216通、22日=672通など通話総数は9920通に達した。吉成さんの総括によると、自主的に参加した新潟クラブ41名の他、新潟大学の学生、近隣7クラブの協力により、市内に移動配置された13局、長岡市の1局が活動した。

東京に戻った西丸さんは「CQham radio」誌上で、今後の災害時のアマチュア無線のありかたについて、4つの課題を投げかけている。(1)人員確保では1カ所に3~4名が必要であり、徹夜要員となると学生が必要。被害を受けている家をほうって参加するので、指揮者は留守宅への配慮が大切。次いで(2)非常通信網の通信系には一人も欠けてはならない。同一通信系にワッチ専念の予備を配し、いざという時の補助に徹する。(3)日赤の腕章は非常体制の折りに効果を発揮する。交渉時には便宜を図ってもらえる。非常無線協議会、市当局とは平素から話し合いをしておき、学生には「公欠扱い」とする便宜を図ってもらいやすくする。そして(4)通報の優先順位をわきまえ、また、指揮者は渉外などに終日飛び回る覚悟が必要。資金面の準備をしておく必要がある。

降雨のため日赤新潟支部前庭テントから無線室に移った後の記念写真。(前列右から2人目が吉成さん)