[弥彦山混信問題] 

新潟県西蒲原郡弥彦村。標高638mの弥彦山がある。標高は高くないが平野の多い新潟県では、行政、警察、放送、新聞社などの送信局、中継局設置に絶好の場所であり、これらのアンテナが乱立していた。昭和40年に入り、アマチュア無線にモービル機、ハンディ機が登場し、また車も普及し始めたために、弥彦山に登リ、QSOするハムが増え始め、業務用局から混信のクレームも増加し出した。

小林さんらは昭和44年(1969年)、JA0監査指導委員会に提案、新潟県電波障害防止協議会と共同で自粛の看板を建てることにし、2年後の昭和47年(1972年)の9月に3枚の看板が建てられた。「お願い」と題された文章の内容は「この付近には重要業務用無線局がありますので市民無線アマチュア無線局等の運用はご遠慮下さい」というものであった。

弥彦山に建てられた混信防止に協力を求めた看板。

[長野県のその後] 

長野県では昭和29年(1954年)に、非常無線通信網を設け、翌30年(1955年)に、信越地方非常通信協議会主催の「JA0管内非常無線コンテスト」をスタートさせたことは先に触れた。その後、昭和37年(1962年)の8月と11月に50MHz帯での非常通信網確立をねらい、信越電波監理局の指導を得ながら電波伝播試験が行なわれた。

これら一連の活動の中心となった一人でもある岡田さんは、39年の新潟地震発生の日の夜、長野県警から「緊急通行許可」を取り、クラブ局JA0RL局の無線機と水を入れた一升瓶を清水さんの車に乗せて長野を出発した。停電の新潟市に近づくにしたがい道も真っ暗であり、燃えている昭和石油タンクの炎を目指した。

県庁、日赤新潟支部を訪ね、活躍中の新潟クラブのハムに会い、持ちこんだ品々を渡すとともに非常通信の模様や、ボランティア状況を聞いた。岡田さんは「長野としての支援策などを色々と考えていると、とりあえず急いで帰ったほうが良い。泊る所もなく、朝になると交通渋滞で帰れなくなるといわれ、とんぼ返りした」という。長野に戻った岡田さんは、県内の各クラブに義援金を依頼し、被災地に贈った。

新潟地震では新潟-長岡間の非常通信に50MHzが使われている。実は岡田さんにとって、非常用通信は縁がある。岡田さんは昭和19年9月、長野中学4年生の時、戦記映画上映の前に、当時の村松陸軍少年通信学校の教官から「近代戦は電波戦」であり、通信兵が太平洋戦争でも活躍している講話を聞く。

岡田さんは長野県のアマチュア無線の発展に積極的に貢献した。

「この頃にラジオ少年、電波少年になることに芽生えたと思う」と岡田さんは振り返る。翌年、10Km離れた従妹の嫁ぎ先に疎開。呉服とラジオ兼業店であるそこで鉱石ラジオを自作する。長野工業専門学校(現信州大学工学部)に進学した岡田さんは、校内に「ラジオ研究部」を設立し、本格的なラジオマニアになっていく。

第二級アマチュア無線技士の合格は昭和28年4月6日。当初は7MHzのみの免許であったが、途中で3.5MHzの追加申請をし、自作無線機で落成検査を受けたのは6月25日。奇しくも九州水害の発生した日でもあった。初の試験電波を出すと「非常通信運用中。諫早地区大水害発生」と警告を受ける。

昭和41年7月、長野地区震度6を想定し、通信網途絶の東京日赤本社と信越電波監理局に仮設した無線機で交信訓練を行なった。ところが、相手基地局が停電となったり、波長調整に手間取り、コンタクトまで15分もかかっている。電報電話公社(現NTT)に入社した岡田さんは災害時には公社の通信網維持で多忙となっていった。

長野県ではしばし防災訓練が行われた。写真は昭和38年6月。

昭和45年(1970年)には信越地方本部の事務所が長野市に設置される。地方本部ごとに設けられることになった事務所は地方電波管理局の所在地が条件であったため、新潟県と揉めることなく決定した。46年(1971年)、諏訪市で信越では初のJARL総会が開かれ、その後信越では「新潟おけさ総会」(1981年)「長野ながの総会」(1998年)と3回開催されている。

1998年は2月に冬季オリンピック長野大会が開催された年であった。長野支部では「長野オリンピック競技大会PR特別記念局」設置のために1996年から準備を進めてきた。また、96年から98にかけては「ワールドカップ長野大会特別局」「長野オリンピック競技大会特別記念局」「長野パラリンピック競技大会特別記念局」そして「JARLながの総会特別記念局」も設けられた。一時期にこれだけの特別記念局が長期にわたって活動したのは過去に例がないといわれている。