庄野少年は徳島県勝浦郡にある源義経ゆかりの勝占神社の氏子であった。小さな時から山野を駆け巡っていた少年に、小学校入学前「朝日グラフ」を見せ、小学校高学年になると「科学画報」などの雑誌を与えたのは、教師をしていた母親だった。中学生になると先生よりも新しい知識をもっており、先生を困らせたこともあったらしい。この頃「電子顕微鏡」や「ウィルソンの霧箱」の記事を読んだことが忘れらないという。

ついでながら「ウィルソンの霧箱」について説明しておくと、イギリスのウィルソンが1897年に発明した粒子の飛跡を検出する装置であり、実用装置は1911年になって出来上がったという。ウィルソンは雲を見て、雲や霧に興味をもち、霧滴がイオンを核として形成されることをつき止めた。

ウィルソンの霧箱の構造図

実験室での再現を考えた結果が「霧箱」である。簡単に説明すると、ガラス製の箱の中に水蒸気を含んだきれいな空気を満たし、体積を膨張させると温度が下がり、水蒸気が過飽和状態となる。その中に荷電粒子が飛び込みイオンが作られると、イオンに水滴が凝結、その動きはイオンの飛跡となって見ることができる。

蓄電器として知られているライデン瓶では、ガラス瓶の中の金属箔に静電気を帯電させる。しかし、帯電された電荷は徐々に漏洩(放電)されてしまうが、それも宇宙線が原因と考えた。その後、この「霧箱」のおかげで陽電子や中間子が発見され、さらに新しい粒子の発見につながるなど原子物理学の上で大きな貢献をした。ウィルソンは長命で1959年に没したが、この間1927年にノーベル物理学賞を受けている。

[ラジオと三枝兵曹長との出会い] 

昭和7年(1932年)、旧制中学に進学した庄野少年は野球部に入部する。その頃、全国各地に放送局の設置を進めていた日本放送協会(NHK)は、徳島市に関西支部の徳島支所を設け、放送開始の準備を始めた。JOXKの呼出符号(コールサイン)での試験放送が始まったのが昭和8年7月23日。旧制中学生になっていた庄野少年は通学の途中にあったラジオ店の店先に小型のラジオが売りに出されているのに出会った。

庄野少年は、小遣いの不足分を祖母にねだって「三枝というラジオ店で確か3円50銭程度で買った記憶がある」という。早速分解してみて、その鉱石受信機の簡単さにびっくりした。それでも、大阪の小学生の歌が聞こえてきて「大阪が聞こえた」と大声をあげたが、これは徳島放送局が大阪放送局の中継をしたものであった。

三枝ラジオ店の店主はハンサムな元海軍の通信下士官であり、ラジオには詳しく、親身になって相談に乗ってくれたという。戦後、JA5AAとなった久米正雄さんも、この三枝ラジオ店の三枝亀三郎さんにお世話になったことを、後年になってJARL四国地方本部が発行した「四国地方30年のあゆみ」の中で触れている。

余談になるが、三枝亀三郎さんは昭和28年にある事件で亡くなっている。冤罪事件で有名になった「徳島ラジオ商事件」である。その辺のことについては別の連載「四国のハム達。稲毛さんとその歴史」に簡単に触れられている。

三枝ラジオ店には輸入真空管も並んでいた。庄野少年は鉱石ラジオの次ぎにフィリップス社製真空管UX-101Fを使った単球ラジオの手作りに挑戦する。このラジオで初めて野球放送を聞いた。野球の歴史に今も残る「中京商業対明石中学の25回にわたる優勝戦」であった。0対0で4時間を越えた熱戦は中京商業のサヨナラ勝ちでゲームセットになった。いまだに耳に押し付け続けたレシーバーの硬さの感触を思い出すという。

庄野さんがラジオ受信に使った真空管

やがて、庄野少年は近所から頼まれたラジオ作りが忙しくなり、野球部も止めてしまった。夏休みには三枝ラジオ店での「ラジオ修理旅行」にも参加した。中波のラジオ放送で夜になると聞こえてくるアジアや北米西海岸からの波に乗ったように浮き沈みして聞こえてくるフェーディング音声の虜になっていった。「無線と実験」誌によって目が開かれ、短波帯海外放送受信に挑戦した。「ドイツ・ナウエンの放送が素晴らしかった」という。