[超大型・室戸台風に遭う] 

昭和9年(1934年)、旧制中学4年になった庄野さんは、九州への修学旅行を止め、6級スーパーヘテロダイン受信機を作った。旅行の積立て金は15円貯まっていたが、10円を足して25円で「6級スーパー」のセットを買った。電池電源の製品であるが、ロッドアンテナで昼間に仙台放送が聞けるものを製作。夏休みの宿題を果たした。

庄野さんはスーパーへテロダイン受信機セットを組み立てた。

その年の9月21日、学年全員が軍事演習のため坂東郡坂東町(現在は鳴門市坂東)の演習場に出かけていった。板東町は大正6年4月に第一次世界大戦の折りに、中国青島で捕虜になったドイツ人約940名が収容された場所として有名である。日本側もドイツ人捕虜も親しく交流、戦勝国、敗戦国の線を越え、ドイツ人達は酪農を根付かせるなど地域発展に多いに貢献し、この地域では今日に至るまで両国のつながりが続いている。

しかし、演習日のこの日は、早朝から北よりの風雨が強く、その中で演習は何とか終了した。食事当番であった庄野さんは風雨の中を酒保から兵舎まで食事を運搬し始めたが、運搬の途中に酒保の屋根が一瞬にして吹き飛んでしまった。

その内に、雨風が止み、青空が見え出した。台風の“目”を初めて体験することになるが、喜んでいたのもつかの間であり、吹き返しの暴風で兵舎も大破した。水に漬かりながらも家に帰った庄野さんは壊れたアンテナを建て直し、ラジオ放送を聞く。NHK徳島放送局も停電のため電池で放送していたらしい。その後台風は夜8時頃に大阪に上陸したが、室戸では瞬間風速73mを記録し、超大型台風「室戸台風」と名付けられた。この台風では登校中の小学生を含め3036名の痛ましい犠牲者が出ている。

[短波を受信、捜査を逃れる] 

当時はラジオを聞くにも許可証が発行された。さらに短波を聞くためには免許が必要であった。ここに、昭和9年(1934年)の国内のアマチュア無線局の統計がある。それによると電信・電話局が162、電話局が6、受信局が15である。受信局とは短波放送を聞くために免許を受けた局のことである。庄野少年は、大阪逓信局に短波受信局の許可申請の手続きを教えて欲しいと手紙を出す。ところが、いつになっても返事がなかった。しばらくたつと、逓信局の係官と警察官の2人が家を突然訪ねてきた。

当時のアンテナは木に縛り付けた、竹竿アンテナだった。

驚く庄野少年に係官は「短波放送を聞いているか」と質問。庄野少年はとっさに免許の件と悟った。「聞いていない」と答えると「ラジオを見せて欲しい」という。受信機は2坪ほどの納戸の実験室に置かれていたが、そこは多目的に利用されており、写真の現像、焼付用の暗室にも使っていただけに真っ暗な部屋であった。

加えて、当時は日中は送電されず、実験はすべて蓄電池を使っていた。庄野少年はハラハラしたが、ラジオのプラグインコイルを中波用に取替えてラジオを聞いてもらい、事無きをえた。

その後、庄野さんはエリミネーター式の大出力受信機を製作。徹夜で作り上げた翌朝、NHK徳島(JOXK)の放送開始前の試験電波を受信していると、午前6時に「これから特別放送があります」という。内容は湯浅倉平宮内大臣による「ただいま皇太子殿下がお生まれになられました」というものであった。12月23日のことであった。

庄野少年は、このラジオの製作を手書きの配線図を付けてラジオ雑誌「無線と実験」編集部に投稿した。「掲載誌と原稿料4円50銭が送られてきて驚いた。当時の旧制中学の授業料と同額であったため良く覚えている」という。

この頃、中学生は映画館への出入りを禁止されていた。しかし、庄野さんは特別な関係から裏口からいつも自由に入ることができるようになる。市内でもっとも大きな映画館の映画用オーディオアンプの保守を親戚を通じて依頼されたからである。出力15W、ウエスタン社のスピーカーを使ったすばらしいものだった。

また、もう一人の親戚が自転車を商っており、中型のハーレーを持っていた。これを止め方も十分に知らずに持ち出して、中学校のグランドで走り、乍ら追っ手に止め方を教わってから度胸がつき、スピードにもとりつかれ、度々長距離にも出かけたものだった。

しかしやがて、旧制中学卒業の時期が近づき、進学か、就職か考えなければならなくなった。旺文社発行の「受験旬報」なども読んではいたが、父を早くなくし、2つの学校の教師を兼務していた母も老いており、庄野少年は進学か就職か悩んでいた。ちょうどその頃、大阪放送局主催の「ラジオ修理技術者講習会」が徳島放送局で開かれることになった。