[進学を決める] 

当時、NHKには「NHK指定修理店」の認定制度があり、講習会の合格者がいることが条件となっていた。このほか、中央放送局では管理地域のサービス要員を合格者の中から求めていたようで、庄野さんに面接の案内が大阪から届く。「窓の外に大阪城が見える部屋でした。徳島放送局での講習会終了式で挨拶をした奥村技師長が出てこられ、学生服姿の私に、さらに進学する気は無いのか、と聞かれた」と、庄野さんは当時を振り返る。

奥村技師長はさらに「NHKにはいろいろな仕事がある。将来NHKに来てもらってもいいのだが」と勧めてくれた。庄野さんは、面接のために大阪に出て来いと言ったのはNHKではないのか、と一瞬思いながらもその言葉に従うことを決めた。実は、母親の勤務している学校の校長からも「進学しないか」といわれていたからでもある。

昭和11年10月、NHK徳島放送で行われた技術講習会終了の写真。後列左から4人目の学生服が庄野さん。前列左から6人目がNHK大阪放送局奥村技師長。

庄野さんとNHKについての余談を挟むと、旧制中学の同級生であった笠井信夫さんは、大阪の夜学校を卒業し、後にNHKの理事になり、後年庄野さんと東京で会い旧交を温めている。「口の悪いOBとなっています」といえるほど、庄野さんにとっては親しい友人の一人でもある。

庄野さんが進学した東京・目黒の「無線電信講習所」を紹介してくれたのは、同級生の森文夫さんだった。同講習所は当時あった「逓信官吏練習所」と異なり、半官半民の運営で、2年、1年、半年のコースのある無線通信士の養成機関だった。在学期間に応じて、1級、2級、3級の免状が取れた。1級を取ると商船学校卒と同格となり、外国航路の局長になれるといわれており「無線講」と呼ばれていた。

昭和12年(1937年)、庄野さんは森さんと2年組みの「本科生」となった。入学してみると生徒は4修(旧制中学4年卒)から5浪(旧制中学卒業後5年浪人)までいる。すでに船乗り気分でやってきた者もおれば,ラジオのラも知らない者もたくさんいた。通信術の時間は週15時間、6課目で80点以下は失格であるが,進級試験の落第者が50%といわれていた。

教官の大半は逓信省本省の人で占められているため、授業は午後から夜にかけて行なわれ、午前中は休みとなっていた。庄野さんは友人に頼まれ、NHKのテキストブックを使った研究会を始め、にわか教師を務めたりした。また多摩川の河川敷で、毎週のようにオートバイレースや小型のモーターレースが開かれていて、よく見に行った。オートバイが玉突きで川に飛び込んだり、レースカーがスピンを起こすスリルも楽しんだ。

[アマチュア無線との出会い] 

下宿は学校から約300mほどの場所であった。築地で料亭を経営していた田原さんという女将さんが引退し、数人の学生を置いていた。また、食事は下宿ではなく周辺の下宿生が一緒になって食事できる場所が別にあった。下宿の田原さんは、かっての仕事柄政財界の人とも面識があり、また、世間一般のことにも通じていた。

その田原さんから、白金台町に藤山工業図書館があると教えられて、よく出かけた。その図書館は財界の大物であった藤山雷太さんが設立したもので、輸入書籍も揃っており、庄野さんはそこで米国ARRL(アマチュア無線連盟)の機関誌であるQSTを知る。下宿の食事仲間に輸入図書販売である丸善勤務の人がいたので、その人に頼み、QSTの定期購読者になる。

この頃、通信の教官や先輩にアマチュア無線家がいた。濱田勝(J2PG)さんや杉山義郎(J2IP)さんである。また、近くにはすでに大活躍していた三田義治(J2IS)さんや清岡久麿(J2KP)さんがおり、訪ねることができた。

このような環境から、庄野さんもすぐにアマチュア無線に興味を持ち挑戦することになる。当時はアマチュア無線という言葉はなく「私設無線電信電話実験局」と呼ばれていたが、その試験を受けるに当たって問題であったのが和文、英文の電信だった。実は庄野さんは旧制中学時代に和文を「合調語」で覚えてしまっていた。「合調語」とは、軍隊内でも即席でモールス符号を記憶させる方法として重宝されたもので「無線講」の北条孫人教官の編み出したものであり「イ」を「イ・トー」と覚える方法である。

文字 符号 読み方
伊藤(イトー)
路頭迷う(ロトーマヨー)
Hapist(ハーピスト)
入費用意(ニューヒヨーイ)
報告(ホーコク)
屁(ヘ)
特等席(トクトーセキ)
地租納付(チソノーフ)
流行児(リューコージ)
ぬらくら(ヌラクラ)
Room to Ward(ルームツーワード)
和尚往生(オショーオージョー)
Warm Day(ワームデー)
下等席(カトーセキ)

合調語の和文 --- 覚えやすいものの速度についていけない欠点がある。

この方法は「覚えるのは早いが、一度覚えてしまうと高速での受信の時に、速度に対応できない。講習所の主流である教官からは“合調”を忘れ、そのまま覚えるよう指導されたが、一度覚えたものはなかなか頭から抜けず苦労した」という。そのため、アマチュア無線の試験は2年生になってから受けることになる。昭和13年5月9日が免許取得日である。コールサインはJ2IBだった。