[日本の第2のマルコーニ] 

その鳥潟博士から「第2のマルコーニ」といわれた日本人がいる。わが国の無線通信の発展に大きく貢献した安藤博さんである。安藤さんは明治35年(1902年)、滋賀県の膳所に生まれ、大正9年(1920年)に明治学院中学部を卒業、早稲田大学理工学部予科に入学、大正14年に同学部を卒業した。

安藤さんは、幼少の頃から研究開発を続け「少年発明家」といわれていた。大正8年には多極真空管を、11年にはニュートロダインをそれぞれ発明し、特許を取得するなど生涯の特許保有件数は数千件ともいわれている。日本放送協会の前身である東京放送局の設立発起人の1人でもあり、大正10年に早くもテレビジョンの研究を始めていた。

東京市四谷に発足した安藤研究所に対して私設実験局JFWAの免許が下りたのが大正12年4月であった。わが国での個人の私設実験局免許第1号は東京市京橋で「発明研究所」を主宰していた浜地常康さんで、1年前の大正11年3月に取得している。この時はコールサインではなく、現在でいう固定機が「東京1番」であり、車載機が「東京2番」の呼出で許可されている。恐らくは当時の電話の呼出に準じたものと推定される。

安藤さんの無線との関わりは子供の頃からであり、免許を取得する前にはアンカバー通信をしていたらしい。その通信の話題は当時の新聞に取り上げられた。東京逓信局・電信係長であった国米藤吉(後J1DE)さんはそれを見て、安藤宅を訪ねて無線電信法に抵触していると注意するが、その一方で安藤さんには「偉い、偉い、通信も上手で本職に劣らない。語学も達者だ。早く正規の手続きをし、堂々と実験を続け、日本のマルコーニになりなさい」と激励している。

昭和6頃、安藤さんとラジオメーカーとの間で多極真空管の特許使用についての係争事件が起きた。現在の特許重視時代と異なり、ラジオ業界は安藤さんの特許権主張に反発した。それを収拾したのが当時の松下電器製作所の松下幸之助社主であった。松下さんは私財で安藤さんから特許を買い取り、ラジオ業界に無償で公開した。「ラジオ受信機の普及のため」を考えた松下さんらしい行動だった。

松下電器製作所(現・松下電器産業)の創業者・松下幸之助さん。

これまで触れた鳥潟博士や安藤さんの研究開発は世界のトップレベルといえる。有線の電信機を知って驚いた日本が、無線通信技術で世界のレベルに達するまで約60年かかったといえなくもない。この期間が長いのか短いのか簡単には結論が出せない。ただいえることは、明治維新後、科学技術のあらゆる面で遅れていた差を必死になって縮めようとするハングリーな日本人がおり、それを政府も企業も支援したことは事実だろう。

鳥潟博士、安藤さんらは後輩を育てたし、論文も残した。安藤さんは早稲田大学出版部から「無線電話」「実用無線電話」の著書を出版した。浜地さんは大正11年に雑誌「ラヂオ」を発刊した。わが国の無線通信関係では初めての雑誌である。

[アマチュアの台頭] 

大正時代末、科学、無線通信関連の雑誌が相次いで発刊される。大正12年(1937年)には「科学画報【誠文堂】」13年に「無線と実験【無線実験社(後に誠文堂に吸収される)】」「無線之研究【無線之研究社】」が登場し、やがてハムとなる少年や若いラジオマニア達は貪り読んだ。これらの雑誌には海外の無線通信の話題と並んで、日本で開発された技術も掲載された。戦前のハム達の口からは鳥潟、安藤さんの名前はあまり出ないが、陰に陽に影響を受けたと見てよさそうだ。

雑誌「無線と実験」大正15年4月号

大正12年になると「放送無線電話に関する規則」が交付され、ラジオ放送許可が迫ってきた。このため、特に新聞社が盛んにデモストレーションを始めだした。大正13年1月には関西で草間貫吉さんと大阪朝日新聞社が、4月には安藤無線研究所と東京朝日新聞社が、さらに5月には大阪毎日新聞社が単独で無線電話の公開実験を行なっている。

[JARLの発足] 

大正15年、わが国のアマチュア無線の歴史上、画期的なことが行なわれた。JARLの結成と世界に向けてのJARL発足の宣言発信である。総裁に草間さんを選出し、37名の会員のほとんどがその夜同じ英文を打った。この頃の様子はさまざまな場所に紹介されているのでここでは省略する。

JARL設立までの大正10年代、やがてハムとなる関東の若者達はどうしていたのだろうか。その中の一人である矢木太郎さんは平成元年1月末にサイレントキ―となったが「関東大震災の年(大正12年)に始めて受信機を組立て、銚子無線局の時報を受けた」という。他のハムの卵も当時あった海岸局や海外の放送、あるいはできたばかりの東京放送局を聞いていたものと想像される。

その頃、すでに関西の笠原功一さん、谷川譲さん、草間貫吉さん、井深大さんなどのラジオマニアは、海外とも交信していた。そして、関東でも大正14、5年頃には自作の送受信機による交信が始まった。記録では仙波猛さんや磯英治さん、矢木太郎さんらが最初だといわれている。もちろん、アンカバーである。JARL結成時の会員のうち、関東は26名であり全会員の7割を占めていた。JARL発足宣言を発信してからの逓信省のアンカバー取締は激しくなる。