大正15年、JARL結成時の関東のメンバーは下記の表通りである。もちろんコールサインはかってに付けたものであり、何らの権威付けもない。大阪さんは今岡さんからコールサインを譲ってもらったため、同じコールサインである。彼らはその頃盛んにアンカバー通信を行ない、国内の仲間同士の他、海外とも交信した。このため、何人かが逓信局に出頭を命じられ、中止を言い渡されるが、あまり効果は無かった。

佐藤 健児 J1FM 詠村 昇  1NE 宇津木 網夫  1UU
樺山 資英 1KB 阿久沢 四郎 1SA 堀北 晴郎 1WW
宮崎 清俊 1KM 島 茂雄 1SH 山本 和一 1WY
森本 重武 1KO 高田 俊一 1SK 星野 愷 1YH
宮島 健一 1KW 森 慶雄 1SM 矢木 太郎 1ZB
萩尾 直 1LT 磯 英治 1SO 今岡 賀雄 1ZQ
井上 均 1MO 中桐 光彦 1TN 大阪 佐熊 1ZQ
高山 元夫 1MT 仙波 猛 1TS 有坂 磐雄 2BB
角 百善 1MU 竹田 健二 1TT    

JARL結成当時のメンバーリスト

学生や若いサラリーマンであった彼らは、海外先進国と比較して短波による交信を許可しない政府に対する反発心もあった。また、若い“いたずら”心もあった。一方、行政の一部ではわが国の電波政策が海外に対して遅れていることをもちろん知っていた。

大正14年(1925年)当時のアンカバー時代について、昭和16年(1931年)11月発行のJARLニュースで、笠原功一(当時J2GR)さんが思い出を掲載している。笠原さんによると、それ以前は波長200mで電話通話する「素人無電家」が東京付近にいたが、この年に波長32mから45m程度で電信をする新しいグループが生まれたと記している。

笠原さんの思い出話は続く。「200m電話グループ」と「32~45m電信グループ」について、笠原さんはわかりやすい分類を試みている。片方は中波で同一市内など近距離、もう一方は電信で遠距離のDX。「短波組はひそかに中波組をあざけり、本当のDXを夢見て日夜精進していた」と書いている。

[鬼監督・空中警察署長] 

この頃、東京逓信局に「鬼監督」とか「空中警察署長」と呼ばれていたアンカバー取締担当の電信係長がいた。先に、安藤さんのところで触れた国米藤吉さんである。明治22年淡路島で生まれ、36年(1903年)に逓信省電気通信伝習所、さらに45年(1912年)に逓信官吏練習所電信課を卒業、第1級通信士となり海外航路船舶の通信業務に就く。船の生活は大成丸の無線電信局長を最後とし、その後"陸"にあがり、東京逓信局勤務となる。

大成丸の通信局長時代の国米さん。

昭和41年(1966年)、国米さんについて書かれた「生きている人の追悼録」が非売品として発行された。そのなかで、国米さんの大正11年(1922年)から14年頃までの取締りぶりが記されている。国米さん自身はきびしく取り締まったが、同時にアマチュア無線家のレベルアッププのための便宜も図った。

その概略を紹介すると「アンカバー(不法施設者)の風潮を作り出しているのは雑誌の“無線と実験”であり、個人では久米地貢君であった。一般のアンカバーを捕らえるより久米地君を捕らえるべきであったが、なかなか上手に立ち回っていた。各都市に衆立無線と称する団体を組織し東奔西走している」

国米さんの要約を続ける。「衆立無線の団体は、臨時実験用の申請はしているが、許可を待たずに実施している。その記事が雑誌に掲載されさらにファンを扇動する。しかし、一方ではラジオ科学の黎明期にラジオ知識の普及は必要なことであり、無理解な弾圧を加えるのはいかがなものかと矛盾を感じている。実験を許さない法に問題もあった」と悩む。

しかし、国米さんは自宅に短波の監督装置を設備し昼夜兼行で見張った。最初は受信機だけであったが、やがて送信機を持ち込んで、いわゆる”オトリ捜査”を始める。架空のコールサインを使い相手を探し出した。架空といっても正式なコールサインを誰も持っていない時代であり、すぐには正体が見破られなかった。

次いで、国米さんは海外のハムと交信し、交信した日本側のアンカバー局の局名、周波数、住所などを聞き出してリストを作成した。これに対して、国内のアンカバー局は海外のハム達に逓信省の検査官が活動していると連絡し、情報入手は難しくなっていった。国米さんはコールサインを変えて努力したが、無駄であった。

国米さんは語っている。「あるアンカバー局を招致して取り調べると、私の家の間取り、通信装置、勤務状況を万事承知していた。そして、こんなことは短波アマチュア局は皆知っているという。ついに、私の家の写真を撮り"鬼の住家"と表紙に紹介した雑誌も現れた」と。

[アンカバーなのか?] 

庄野さんはこの時代の「アンカバー」という定義に疑問を持つ。免許制度が整っていた場合には、それに違反すれば不法局であるが、制度がないのに「アンカバー」といえないのではないかという主張である。逓信省は明治33年10月に逓信省令第77号で、無線電信を電信法の適用下に置き「私設」を認めないことにした。

その後、明治39年(1906年)10月にベルリンで開かれた第1回国際無線電信会議で、[国際無線電信条約][付属業務規則]が決められた。また、大正3年(1914年)にロンドンでは「海上人命安全条約」が議決され、船舶に無線装置の設置が義務付けられた。この結果、逓信省は私設無線を認める必要に迫られ、大正4年(1915年)に「私設無線電信規則及び私設無線電信通信従事者検定規則]を制定している。問題は、この規則をいわゆるアマチュアに適用し、門戸を開かなかったことにあるといえそうだ。

「生きている追悼録」発行当時の国米さん。