[JARL結成の裏側] 

いずれにしても、この当時は無線により国内外と交信を望む若者にとっては、アンカバー通信をせざるを得なかった。再び、笠原さんの思い出では、関西のグループは35m、37m波長、関東は最初の80mから42mに変え、それぞれが独自に交信していた。「そのうちに関東の1局が試みに波長を下げてみたら関西とつながった」と東西交流を記している。

そして「仙波猛氏、磯英治氏が東(関東)の親方であったのに対し、草間貫吉氏、梶井謙一氏が西(関西)のガキ大将であった」と、この頃の中心アンカバーを紹介し、東西の会合に至る経緯を説明している。大正15年(1926年)4月、草間、梶井、笠原さん3名が上京、仙波、磯、宮崎さんに会い、JARL結成を決めている。この中では笠原さんはJARL設立、宣言文の打電の日を6月12日としている。

JARL結成時のメンバーは、戦後に「CQ会」の名前で年1回集まっていた。写真は昭和31年の例会。庄野さん(後列左から3人目)はゲスト参加した。JARL提供

東京、島茂雄さんによる思い出も紹介しよう。「Rainbow News」の第5号に掲載されたものである。島さんは大正15年(1926年)6月のある日(6月12日か26日かはっきりしないという)学校で、菅沼(当時のJ1SS)さんに仙波さんの家に集まるようにいわれ、巣鴨の駅近くにある下宿を訪ねる。内海(同J1AB)さんと一緒に行くと、仙波、磯、中桐、宮崎、森本、宇津木、萩尾さんらで部屋は一杯だった。

そこでいわれたのは「JARL結成の合意が関西側とできた。今晩一斉にそれぞれが全世界にQSTしよう」ということであった。英文の草案は「どういうことか私にお鉢が回ってきた」と記している。

7月にも関西から草間、梶井、笠原さんの3人が上京し、東京の仙波、磯、宮崎さんら前回と同じメンバーとの会合がもたれ、今後のJARLのあり方などを話し合っている。12月には「無線之研究」をJARLの機関誌とすることを決め、また、東京―大阪間の24時間感度テストを計画したものの大正天皇の崩御により中止したらしい。

翌年「無線之研究」の表紙に「JARL機関誌」の表示が入る。その頃の紙面を見ると、東京では宮崎さん、仙波さんが積極的に交信記録を発表、関西では笠原さん、草間さんが、交信記録や原稿を寄稿している。しかし、その「無線之研究」もその年の9月に廃刊となる。発刊以来約3年間。経営難が原因だった。

JARLの機関誌となった当時の「無線之研究」(昭和2年四月号)とJARLの盟則。

その「廃刊の辞」には「for、by and of amateur(アマチュアのためにアマチュアによってアマチュアのことを)をモットーとした非常にスマートな小さな無線雑誌があったということを、その銀色の表紙とともに永久に忘れないで下さい。・・・・・我々はアマチュアラジオが今一段と進歩発展をするまで待ちましょう」と惜別と激励の言葉がつづられた。

[ついにアマチュア無線免許] 

JARL結成宣言を華々しく打電したことや、その後の活発な国内外との交信に対して、逓信省は取締を強化する一方で、大正15年10月に、現在の電波監理局に相当する電務局から各地の逓信局に短波実験局出願に対する通達を出している。免許条件の参考となる7項目の通達であり、同時に免許制度開始の準備であった。

そして、昭和2年9月から10月にかけて9局のアマチュア局が誕生する。当時の正式な免許局名は「短波私設無線電信電話実験局」であり、草間さんと笠原さんを除く7局が関東であった。コールサインはJX○○だったが、翌3年には、国別プリフィックスの次に個人を識別するサフィックスで構成するというワシントン条約の規定に基き変更される。

この9名への免許に先立ち、この年の8月4日に有坂磐雄さん、楠本哲秀さんが短波実験局の免許を出願、翌昭和2年(1927年)3月1日、有坂さん、楠本さんの2人に免許が下りる。有坂さん、楠本さんがわが国アマチュア無線局の第1号かどうかについては、さまざまな意見があり、詳しくは別の連載(関西のハム達―島さんとその歴史)で触れている。

個人の実験局免許をよく調べてみると、浜地さん、安藤さん、有坂さん、楠本さんのほかにも何人かの免許取得者がいた。昭和2年(1927年)10月の辻本信夫さん、4年7月の中村実さん、8月の中平一男さんの3人はコールサインがなく、ともに受信局であった。国米さんは昭和2年5月にJMPBのコールサインで免許を受けており、有坂、楠本さんと同じ時期、同じ根拠での免許であったと思われる。

有坂さんのQSLカード。

私設実験局免許第1号の浜地常康さんについては、矢木さんが「Rainbow News」の5号で書いている。それによると、浜地さんの「発明研究所」は、教材用の無線電話装置の製造、販売が目的の企業で、現在の西銀座1丁目にあったという。中波による無線電話、つまり、放送の実験を行なっており、局名は「ハマチ・ツネヤス」だった。

中波での交信を試みていた当時のアンカバーのラジオマニアは、浜地さんに感化を受けて電波を出したらしい。矢木さんは「皆、○○放送局とか○○研究所と名乗り、中には赤鬼、青鬼などの局名をつけていたものもあった。いずれにしてもコールサインを使うアンカバー局はなかった。」と矢木さんは当時を記している。