JA1AA 庄野久男氏
No.8 本格的な活動を開始したJARL
[手入れ、告発された矢木さん]
免許制度ができたものの、許可条件は試験の結果だけではなかった。本人の履歴や、経済力も条件であった。笠原さんは商業科でありながら、無線を始めるのはおかしいといわれて許可が遅れた。関東では矢木さんか゛出願時「君は浪人ではないか、アマチュア無線をやる暇があったら勉強をしろ」と、受け付けてもらえなかった。
さらに悪いことに矢木さんは、教授とけんかをし、3人の仲間とともに旧制高等学校を退学させられていた。他のJARLメンバーが次々と免許を取得した後は、やむなくアンカバーを続けていた。昭和43年8月17日号のJARL NEWSには、アンカバー容疑で取締りにあった時の模様を詳しく記している。
矢木さんの自宅が手入れを受けたのは昭和4年の初めの頃だった。逓信局が摘発に動いていることを知っていた矢木さんは対策も「いろいろ用意していたのですが、私の不在の時に踏み込まれてしまった」という。3人の係官は母の制止も聞かず、女中を突き飛ばし、中の一人は土足のまま飛びこんだらしい。
矢木さんの大正15年のシャック。JARL提供。
机や戸棚はすべて引っ掻き回され、ログ、QSLカード、写真類を証拠品として持っていかれ、機械類には「大日本帝国逓信省封印」が貼られた。矢木さんは「すぐに逓信局に行き詫びを入れれば穏便に済んだと思うが、申請を受け付けてくれないことや、手入れの時の態度に腹を立て、放っておいた」と当時の状況を書いている。
この時、同時に告発され、東京地方検事局に呼び出されたのが多田正信、半田成一郎、杉田倭夫さんの合計4名。アマチュア無線のことを知らない検事に依頼されて、矢木さんは無線通信の原理、世界のアマチュア無線の状況、日本のアマチュア無線の現状を説明する。検事は「絶対的見地からは君らは悪くない。しかし、法を破ったのは事実である。告発は却下するが、親に出頭してもらい、今後の厳重監督をするよう注意する」ということで済んだ。
さらに検事は「君達はこの事件でくじけることなく、今後もまじめに実験や研究を続けるように。逓信省には話してあるから直ちに出願手続きするように」と激励される。矢木さんら4名の出願は極めて丁重に受理され、直ちに試験が行なわれ、わずか2カ月足らずで免許された。
[関東支部の分裂と再建]
アマチュア無線免許制度を作ったものの、当時の逓信省は基本的にはアマチュア無線局を大幅に増やしたくはなかったといわれている。大正6年(1931年)、共産主義革命に成功したロシアは、勢力を他国に伸ばしていくことに全力をあげていた。大正末にはドイツでヒトラーが勢力を握りつつあった。日本は満州の獲得を狙っており、昭和3年に現地の日本軍が中華民国陸海軍大元帥である張作霖を爆殺した。
第1次世界大戦が終わり、再び戦火を避けようと大正9年に国際連盟が成立されたが、それもつかの間であり、世界的に緊張感が高まっていた。海外と自由に交信でき、情報交換できるアマチュア無線の存在は政府にとってはマイナスになってもプラスにはならないと思われていた。したがって、欧米諸国と比較して、厳しい制限が課せられていた。
空中戦電力、使用できる周波数の制限。「実験に関することに限る」という通信内容。2時間おきの通信許可時間。JARLは逓信省と制限緩和を交渉したが効果はなかった。JARLにもう一つ問題が持ち上がった。関東支部の分裂騒ぎである。免許を取得したハムが増加するにともないJARLの会員も増加してきた。しかし、同時に免許制度のなかった頃からのBCL(中波の受信マニア)も残っており、いわば過渡期的な混在状況であった。
関東支部ではBCLの一人が支部幹事であり、新勢力であるハムとは支部運営の方向が違っており、支部が機能を失っていった。矢木さんは昭和43年9月7日号の「JARL NEWS」でこの問題に触れ「改善要求の声が全員からあがり、本人にも、また、当時実質的に本部の役割を果たしていた関西支部にも何回も申し入れをしたが、らちがあかなかった」という。
業を煮やした矢木さんらはJARLを脱退し、新しくEART(イースタン・アマチュア・ラジオ・トランスミッターズ)の設立を決めた。この結果、関東支部は自然消滅のようになり、問題の幹事も引退、関西支部もことの重大さに気付いて関東支部の再建を関東に任せている。新生関東支部の設立は昭和5年の5月。決めた規約はわずかに2項目であり「会員は許可を有するものに限る」「運営は選出された委員の委員会によって行なう」というシンプルなものであった。
この年、逓信省の発表では「短波私設無線電信電話実験局」の数は、電信・電話49局、電信7局、電話8局の64局。この中には官公庁、学校も含まれており、個人局は関東で9名ほどであった。新生関東支部の会員は、次ぎの通りだった。柳瀬久二郎(J1DH)河野正一(J1DJ)半田(J1DM)杉田(J1DN)矢木、多田(J1DP)鉾立舜一(J1DR)深町三六(J1DT)漆原健(J1DV)
高村 永喜 | J1DY | 東條 勝久 | J1ET | 柴田 知雄 | J1EK |
鈴木 康夫 | J1EP | 高坂 知至 | J1EF | 和田 藤秋 | J1FB |
橋詰 春雄 | J1EA | 升井 芳平 | J1EU | 高木 亨 | J1EL |
長田 祝太郎 | J1EQ | 斯波 邦夫 | J1EG | 青木 威三 | J1FD |
中村 弘二郎 | J1EC | 野崎 誠一 | J1EY | 石井 傳 | J1EM |
小宮 兪己 | J1ER | 森川 辰雄 | J1EH | 佐々木 正治 | J1FE |
青木 正二 | J1ED | 笠原 功一 | J1EZ | 溝呂木 新太郎 | J1EN |
住吉 正元 | J1ES | 林 一太郎 | J1EI | 大島 正臣 | J1FF |
中川國之助 | J1EE | 鷲尾勝郎 | J1FA | 島 茂雄 | J1EO |
昭和6年11月の関東のハムリスト