[JARL NEWSの発刊] 

「無線之研究」誌が廃刊された後、JARLの活動や会員間の情報伝達の媒体は無く、早急に新しい媒体が必要となっていた。昭和4年(1929年)になって、無線誌「ラヂオの日本」に「日本アマチュア無線連盟のページ」が設けられることになり、4月号からスタートした。「ラヂオの日本」は、日本ラヂオ協会が機関誌として発行したばかりの雑誌であった。

しかし、同誌では研究発表などに限られていたため、関西支部は会員相互の連絡もできる媒体を作ることにし、昭和4年6月に月1回の発行が始まった。B5版ガリ版・謄写版印刷で毎月10日頃に発行された。当初は関西支部内の媒体として考えられていたが、他地区からも購読の要望が多く、100部以上を発行して配布。昭和5年2月号からは発行名義を日本アマチュア無線連盟としている。

「JARL NEWS」には、会員のコールサインと近況を記した短い報告が並んでいる。それを丹念に拾っていくと、ハムの活動振り、ひいてはJARLの活動を通しての当時のわが国のアマチュア無線界の姿を見ることができる。関東支部は定期的に支部集会を開いており、昭和5年の7月集会には20名が集まっている。

昭和6年(1931年)1月には関東支部の会費を月15銭とする通達が載っている。その理由として「封筒100枚が20銭、便箋50枚1冊が30銭する」と書かれている。3月15日号には「偽者が多いので対策を検討した」とある。偽者とは、コールサインをもたないマニアが他人のコールサインで交信していることであり、実際にはアンカバーである。5月にはヘンリー・Y・佐々木(W6CXW)さんが来日したため関東支部で歓迎会を実施、ヘンリーはJ1のいくつかの局を訪問している。

晩年の矢木さん。

[JARL NEWSの変遷] 

9月になると、関西の笠原さんが勤務の都合で上京する。笠原さんは「JARL NEWS」編集の中心の一人であったため、東京への移転後が心配されたが、都合良くNEWSの東京発行が決まりつつあった。東京朝日新聞社が印刷を全部引き受けようとの申し入れであった。謄写版印刷から活版印刷となり、写真の掲載も可能となった。

朝日新聞社は「発行回数、部数、ページ数は一切無条件。費用も1銭も要りません」というものであり、昭和6年12月10日号から移管された。この活版刷りを契機に「ラジオの日本」の「日本アマチュア無線連盟のベージ」は廃止となり、さらに「JARL NEWS」も昭和9年2月号から再び自営発行へと移る。編集面では笠原さん、島茂雄さん、矢木さんなどが活躍していた。

[こちらは杉田でございます。杉田です] 

昭和7年9月23日、J1DN、杉田倭夫さんが死去した。この年の3月に日大医学部を卒業し赤十字病院産院に就職してわずか6カ月、24才であった。わが国で初めてのサイレントキーでもあった。杉田さんは先にも触れたが、矢木さん、半田さん、多田さんとともに4人の親密なグループを形成していた。4人は「フォー・ギャング」と呼ばれ多くのハムに親しまれ,同時にJARLの活動にも積極的であった。

「JARL NEWS」の10月号は杉田さんの追悼号となった。杉田さんはNEWSの活版化、東京朝日新聞との折衝にも活躍し、医師という多忙な仕事とハム運用、JARLでの活動を続けた。死因は腸チフスであった。追悼号には「フォー・ギャング」の残ったの3人の他、笠原さん、青木咸三(J1FD)さん、柴田知雄(J1EK)さん、中川国之助(J1EE)さん、杉田さんの妹の千代乃さん、後に朝日新聞の「天声人語」の筆者として知られるようになる荒垣秀雄さんが寄稿している。今、庄野さんはその荒垣さんのお嬢さんと所属しているキリスト教会で親しくしているという。

昭和6年春のJARL関東支部の会合。コピーのため見にくいが貴重なもの。前列左端が矢木さん、その右が半田さん、後列左から3人目が多田さん。

皆、生前の交友、活躍を紹介しているが、矢木さんはアンカバー時代の思い出とし「4AK、4BK、4CK、4DKと3人とも4のつくコールに改名した」「4人揃ってつかまって、4人揃って許可をとり、4人揃ってWACになり・・・」と書いている。千代乃さんは「こんな思い出を書きながらも毎月くるQST誌や、今になっても時々舞い込むQSLカードを見ると、またどこかに兄が生きているような気がします」と、あきらめきれない気持ちを伝えている。

杉田千代乃さん(後に鈴木千代乃さんとなる)

その千代乃さんは杉田さんから生前、ハムになることを勧められ、モールスのカードを作ってもらったりしたが、その気にならなかった。ところが、杉田さんの死を契機にハムになることを決意、わが国のYL(女性ハム)第1号となった。荒垣さんは、病床に付き添った杉田さんのお母さんから「氷嚢を夢中で耳と口に当てて“ハーハーこちら杉田でございます杉田ですと、叫んだ”」と聞いたつらい事実を書いている。